03/01/31 掲載
■アル中はスペシャリストであらねばならない
山口瞳に「酒呑みの自己弁護」というタイトルのエッセイがある。まさに、酒呑みは自己弁護をしつつ、何かと理由を付けて(自分を納得させて、あるいは誤魔化して)今夜もまた酒を呑む。世の中に酒場は多く、なおかつ多くの酒場が儲かるわけである。
僕が呑み始めたのは、30を幾つか過ぎてからだった。それまでは、自宅ではまったく呑まなかったから、酒をもらってもいつまでも封を切らずに置いてあった。呑むようになったのにはいろいろ理由があるのだが、今になって思えば元々呑める体質だったのだろう。呑み始めた頃は忘れるために呑んでいたのだが、今では呑みたいから呑んでいる。
朝、目覚めたときに「今日はいつ呑めるか」と考えるようになったら、立派なアル中だという。だとすれば、僕はアル中かもしれない。大学時代、アル中で乱暴(アルチュール・ランボー)を自称する呑んべな詩人の友人がいたが、僕は少なくとも乱暴ではない。自己評価だが、酒品はいい方だと思う。
去年の10月初め、遅めの夏休みをとって帰省した。父親が夏にしばらく入院したので、その様子を見に帰るのが主な目的だったが、帰省すると必ず一緒に呑む友人がおり、帰省した翌日、その友人と昼前から出かけて、まず昼過ぎに秋晴れの下、バーベキューで一杯飲んだ。
その後、ぶらぶらと散歩して繁華街へ帰り、夕方から本格的に呑み始め、1軒目でビールと日本酒を呑んだ。9時頃に店を変えて、今度は焼酎の水割りを呑んだ。3軒目に移ったのは11時過ぎで、そこではウィスキーを呑んだ。
気がついたら水の中だった。
その後のことは語りたくないが、数万の現金と免許証とカードが入った財布と紺のダブルのジャケットとメガネがなくなっていた。呆れ果てた母親に言わせれば「命がなくならなかっただけマシ」である。
数年に一度、こんな伊勢湾台風みたいな超弩級の泥酔に襲われる。3年前の時には、夜中に自転車で道端に倒れていた。20年ほど前には、気づいたら青梅街道の真ん中で寝ていたことがある。
記憶がなくなるのが泥酔の特徴である。
二日酔いで寝ていた僕は、記憶がないことに恐ろしくなった。ジュナサン・ラティマー作「シカゴの事件記者」というミステリは、泥酔して目覚めると隣に美女の死体が…という設定の古典的代表作だ。その時の主人公の気持ちが手に取るようにわかった。
「モーニング・アフター」という映画でジェーン・フォンダが同じ設定を演じていた。アル中気味の女優が目覚めると隣に男の死体が……、というシチュエーションだ。もちろん、彼女は自分の行動をたどり始める。だが、まったく覚えがない。
アル中に憧れる部分がないとは言わない。中学生の時にエド・マクベインの87分署シリーズを愛読していたが、同じ作者がカート・キャノン名義で出した「酔いどれ探偵町をゆく」を読んでしまったのが間違いだった。
高校生の時にギャビン・ライアルの「深夜プラスワン」が出た。主人公ルイス・ケインもいいが、副主人公のアル中のボディガード、ハーヴェイ・ロヴェルにいかれてしまった。早川ミステリ文庫「冒険・スパイ小説ハンドブック」の「好きな脇役ベスト10」の人気投票でも圧倒的な票数で1位を獲得するキャラクターだ。
私立探偵フィリップ・マーロウを作り出したレイモンド・チャンドラーは自らもアル中だったが、代表作「長いお別れ(ロング・グッドバイ)」でアル中の作家を登場させ、また礼儀正しい酔っぱらいテリー・レノックスという魅力的な人物を描き出した。
チャンドラーに影響を受けたのだろうが、ジェイムズ・クラムリーの「さらば甘きくちづけ」では出てくるほとんど全員が(犬まで含めて)アル中である。彼は「ダンシング・ベア」「酔いどれの誇り」の主人公、本格的アル中探偵ミロドラゴヴィッチも創り出しているから、よほどアル中に思い入れがあるのだろう。
ちなみに桐野夏生の乱歩賞作品に登場する主人公・村野ミロは、クラムリーのミロドラゴヴィッチからとっているという。かほどに紙上のアル中探偵は女性読者を魅了するのである。現実のアル中男には目もくれないのであるが。
アル中探偵と言えば、マット・スカダーをあげねばならない。現在も継続中の人気シリーズだし、本格的アル中だからだ。もっとも、彼は「800万の死にざま」あたりからは、AA(アルコール依存症自主治療協会)の集会に参加し、ほとんど飲んでいない。最近の数作では一滴も飲んでいないと思う。彼がいつ呑み始めるか、というのがこのシリーズのひとつのサスペンスになっている。
以上のようにハードボイルド系ミステリではアル中は、登場人物のキャラクター付けに大いに活用され、アル中であるからこそ魅力的な人物になっているのだが、そこでひとつ大きな要素を見逃してはいけない。彼らはアル中ではあるが、みんなプロの自覚を持つスペシャリストたちなのである。
ハーヴェイ・ロヴェルは、ヨーロッパでナンバー3のガンマンであり、プロのボディガードだ。小説の中では酔っぱらいながらナンバー1とナンバー2のガンマンに勝つ。他の探偵たちも、必ず真犯人を探し出し、事件が解決すれば再び苦い酒を呑む。
つまり、彼らはアル中ではあるがプロフェッショナルとしては一流であることを読者に納得させる設定になっているのだ。小説の中の他の人物たちからは「どうしょうもないアル中」と思われていても、彼のプロとしての誇りや自尊心、仕事に対する真剣さなどは、読者に通じるように書かれている。
ここが重要なのですね。そういう部分がなければ、ただのアル中の呑んだくれにしか過ぎない。普段は酔いどれでだらしなくても、いざという時にはプロとして完全な仕事をする、というのが魅力的なのである。また、アル中になるほど心優しい人間だから、複雑な人間関係の襞を解きほぐして、人生の苦みを確認できるのである。
酔いどれの写真家の知り合いがいる。最近はあまり一緒に呑まないが、カメラ雑誌をやっていた頃は、新宿ゴールデン街で何度も夜明かしをした。そのTさんもアル中に憧れるクチだった。「手が震えるアル中のカメラマンが、カメラを構えるとピタッと止まる。1/2秒のスローシャッターさえ、ブラさずに撮れる。それがプロってもんだ」などと、酒を呑んでは気炎を上げていた。
その話はジャン・ピエール・メルヴィル監督の「仁義」からの発展だった。その映画の中に登場する元刑事で今は暗黒街のスナイパーになっているイブ・モンタンは、完全なアル中として描かれる。何しろ、最初に登場するシーンでは彼のベッドにトカゲやら蛇やら昆虫やらがゾロゾロと這い上ってくるのだ。譫妄症に悩まされるほどのアル中、という描写だった。
アル中であることを隠してアラン・ドロンの仕事の依頼を受けたモンタンは、土壇場で三脚に据えていたライフルを外し、手持ちで10メートル以上離れた宝石店の鍵穴を射抜く。「報酬はいらん」と言い置いて去っていくモンタンのかっこよさ。たまりませんねえ。
モンタンはプロとしての自尊心を持ち続けるために、誇りを保つために、あえて手持ちで引き金を引いたのだ。自分はまだ超一流のスナイパーであることを確認するために、仕事を引き受けたのである。失敗することのできない仕事に自分を追い込み、自分の腕を確かめたかった……。
アル中という要素をキャラクターに付加する時には、彼がプロフェッショナルであることを強調したいという狙いがある。超一流のプロであることとアル中であることは両立しないから、つまり、アル中になることはプロの仕事ができなくなることだから、アル中になりながらも超一流であることは、本当の超一流であるという論理が成立する。
また、アル中になった原因を彼の過去に設定できる。マット・スカダーの場合は警官の頃に間違って少女を射殺したことが、アル中になる遠因であるかのように書かれている。ハードボイルドな男は、過去に深い心の傷を負っていなければならない。
具体的に過去の心の傷を説明しなくても、フィクションではキャラクターをアル中にすることで「そんなに呑むほど過去につらいことがあった」と想像させることができる。単なる酒好きでアル中になった、とはあまり思わない。
アル中が見る幻想にピンク・エレファントがある。英語で「ピンクの象が見える」という言い方は酔っぱらい、アル中の意味である。ディズニーアニメ「ダンボ」でダンボが間違って酒を呑み酔っぱらうシーンがあるが、そこに登場して踊るのがピンクの象である。
僕は昔、「ピンクの象を見るボディガード」というタイトルで、元セキュリティポリスでアル中のフリーランスのボディガードが大物歌手をガードするストーリーを考えたが、書かないまま時間が経ちホイットニー・ヒューストンとケビン・コスナーに先を越された。
ひとりが思いつくことは世界中で1000万人くらいが考えていると僕は思っているので、知的所有権を主張するつもりはまったくないし(当たり前だ)、誰でも考える設定なのだと改めて思ったが、「ボディガード」という映画ではケビン・コスナーに陰がなさすぎた。手垢の付いた設定だが、せめて過去の心の傷に悩むアル中気味の男にでもしていれば、あんなに脳天気な映画にならなかったのになあ。
アルコール依存症は、すべてのことを放棄してアルコールを飲み続ける病気である。だから、アル中とプロフェッショナルであることは、現実にはほとんど成立しない。仕事に対する誇り(「どんな仕事にだって誇りって奴が必要なんだ」と北方謙三は書いている)や責任を持ち続けている場合は、アルコール依存症ではない(と思う)。
中島らもの小説「今夜、すべてのバーで」はアル中で入院した男の話で、かなり自分の体験が入っているらしい。中島らもは、あれだけ面白い小説やエッセイが書けるから、アル中であったとしても世の中に認められているのだ。
ここまでの展開でおわかりだろうが、僕が憧れているのは単なるアル中ではない。プロフェッショナルなスペシャリストであり続けることができるアル中、なのである。そんなアル中には、映画や小説の中でしかお目にかかったことがない。現実に会うのは僕を含めて「能なしの単なるアル中」ばかりである。
そんな僕でも、映画を見て「アルコールを控えよう」と思ったことが一度だけある。ジャック・レモンとリー・レミック主演の「酒とバラの日々」。普通のサラリーマンが仕事の辛さからアルコール依存症になり、人生が破滅する。彼がようやく禁酒できた時、今度は妻がアルコール依存症になっている。悲惨なラストだった。名曲「酒とバラの日々」を聴くたびに思い出す。
だが、酒を呑む奴と呑まない奴がいるとして、どちらかを友人に選べと言われたら呑む奴を選ぶ。呑まなかった頃に比べて、呑むようになってからの方がずいぶんいろいろな経験をしたし、面白い人間にも出会った。酒場の作法も覚えた。少なくとも、今まで生き延びてくることができた。
ホラ、酒呑みの自己弁護でしょ。
■2000年1月15日号
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、すでに二十数年勤める。現在は隔月刊のアマチュア向けカメラ誌編集長。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.0506 2000/01/15.Sat.発行より転載
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