03/04/11 掲載
十河 進
■人生を構成する三つの要素
──人生は三つの要素で出来ている。夢と友情と裏切りだ。
この言葉を、僕は30年間、何かあると自分に言い聞かせるようにつぶやき続けてきた。座右の銘というわけではないが、何かを期待しそうになったり、人を好きになりかけたりしたときには、言い聞かせてきた。
この後に「だから期待するな、期待しなければ裏切られることはない」と続けることが多い。人を好きになれば、相手からも好かれたいと期待する。自信のある特集が出来れば、本が売れることを期待する。だが、世の中はそんなに単純じゃない。愛情や努力がストレートに報われることは、ほとんどない。
いつの間にか「期待しなければ裏切られなくてすむ」という考え方をするようになったのは、この言葉のニュアンスが体の芯までしみこんだからだろう。この言葉の重要な点は、もちろん「裏切り」だ。人は裏切る、自分さえも。そして、裏切られる、様々なものに。
「夢と友情」は人生の明るい面を象徴し、「裏切り」という言葉は人生の暗部を象徴している。だからこそ、18歳の僕は、この言葉に感銘を受け、以来、一度も忘れたことはない。もちろん、その奥深さは実感できなかったが、前途に漠然と広がる自分の人生の重さを噛みしめたものだった。
「裏切り」という言葉を選んだところに、この箴言を吐いた男の人間洞察の鋭さ、人生に対する深い認識を感じる。「裏切り」という言葉は、文字通りの意味を含むと同時に、人生における挫折や失意、落胆、悔恨、絶望など、すべてを象徴しているのだ。
この箴言を吐いたのは、フランスの映画監督ジャン・ピエール・メルヴィルである。文字通り「夢と友情と裏切り」を描き続けた偉大な映画監督だ。
さて、ここまで僕は「夢と友情と裏切り」と書いてきたが、メルヴィルの言葉を正しく引用すると少し違う。この言葉はキネマ旬報社の世界の映画作家シリーズ18「犯罪・暗黒映画の名手たち/ジョン・ヒューストン、ドン・シーゲル、ジャン・ピエール・メルヴィル」中の読売新聞の映画記者・河原畑寧の取材記事に出てくるものだ。
──映画は夢を描くものだ。私の映画は、もし私だったらこういうふうに行動したいという願望から作られている。……人生は三つの要素で出来上がっていて、その三つとは愛と友情と裏切りである。
河原畑寧は「リスボン特急」(1972)の完成試写を見ながらメルヴィルをインタビューしたらしいが、残念なことに「リスボン特急」はメルヴィルの遺作になってしまった。
30年足らずの間に、13本の長編を遺しただけの寡作な監督である。日本ではJ・P・ベルモンド主演の「いぬ」(1962)からしか公開されなかったから、フィルム・ノワールの監督と思われてきた。初期には、ジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」を映画化して評判になっている。
日本公開では「いぬ」(1962)「ギャング」(1966)は通に好まれたが、アラン・ドロンと組んだ「サムライ」(1967)が話題になり「影の軍隊」(1969)「仁義」(1970)と続いた。「リスボン特急」のヒットは、当時、日本でもブームになっていたカトリーヌ・ドヌーヴのおかげかもしれない。
先日、WOWOWで処女長編「海の沈黙」(1947)が放映された。初期の「マンハッタンの二人の男」(1958)も以前にWOWOWで放映された。WOWOWはハリウッドの大作放映ばかりを告知して、こういう映画は気付かないうちに放映する。困ったものである。
「海の沈黙」は、ヴェルコールのレジスタンス小説である。僕は、高校の国語の教科書で初めて読んだ。この原作を処女長編に選んだところに、メルヴィルらしさを感じてしまう。何しろ、主人公の老人と姪は一言も喋らない。
小説なら喋らなくても成立する。内面を語れるからだ。小説でも、喋るのはフランスを占領し、老人の家を宿舎にすることになったドイツ軍のインテリ将校だけである。老人と姪は沈黙で、占領者に抵抗する。
感銘深い映画である。インテリで芸術を愛するドイツ軍将校はフランス文化を尊敬し、ドイツとフランスの融和を本気で信じている。誠実で素晴らしい人間に描かれる。
だが、彼はドイツ軍の占領政策に絶望し、戦死率の高い悲惨なロシア戦線を志望する。自殺的行為である。その彼が去るときに、老人と姪は口を開くだろうか……、映像だけでサスペンスを感じさせる後年のメルヴィルの手法は、こんな設定でも才能を見せつける。
メルヴィルの映画を一言で表すなら「ストイック」だろうか。禁欲的で厳しい映像が、ゾクゾクするほど素晴らしい。セリフを削りそぎ落とし、最低限必要なものしか残さない。もちろん、音楽で盛り上げることなど、まったくしない。すべてを映像で語る。
メルヴィルの映画はモノクロか、カラーでも色彩設計は沈んだモノトーンだ。夜のシーンが多いから、眼を凝らさないと大事なものを見逃すこともある。まさにクールな映像である。一瞬たりともスクリーンから目を離せないと思わせる厳しさ。
饒舌で意味のない映像が垂れ流されている現在、メルヴィルの映画を見ると、緊張感でいつの間にか背筋がのびてくる。俺も意味のない言葉を喋り散らしたりしないようにしよう、と厳しく律したくなる。
そんな映像の中で描かれるのは、禁欲的で厳しい男たちの「友情と裏切り」の物語である。
暗黒街を舞台にしたのは、いつも死を意識して生きているストイックな男たちを描けるからだろう。その典型は「サムライ」でアラン・ドロンが演じた殺し屋ジェフ・コステロである。
後にギンギラギンの衣装で沢田研二によって歌われる「サムライ」は、もちろんこの映画からインスパイアされたものだが、映画自体は「武士道の本によると、サムライの孤独は密林の虎の孤独である」というスーパーと共に始まる、一匹狼の話である。一人で傷の手当をするシーンが、男の孤独と誇りを見せつける。
僕は「冒険者たち」という映画のリノ・バンチュラが大好きだが、本来は、彼はギャングを演じたときに、その個性を最も発揮すると思っている。その代表作が「ギャング」だ。ここでは、裏切り者・密告者と思われたギャングが、死を賭して汚名を雪ぐ誇り高い姿が描かれる。
リノ・バンチュラがインテリの教師役を演じたのが「影の軍隊」だ。彼はド・ゴール派のレジスタンスの一員である。捕まれば死という緊迫した状況の中、ここでもレジスタンス活動の厳しさが描かれる。
シモーヌ・シニョレ演じる女闘士は「鉄の女」として描かれる。だが、彼女は逮捕され、ゲシュタポの巧妙な罠に落ち、娘を盾にとられ、ついに仲間を裏切る。「愛と友情と裏切り」が究極の形で設定されるのである。
ラストは、(彼女自身が望み覚悟していたのだが)解放されたシモーヌ・シニョレを処刑するシーンだ。その後、非業の死を遂げるレジスタンスの仲間たちの運命をクレジットして映画は終わる。非情な印象を残す映画だった。
「友情と裏切り」をテーマにした暗黒街ものの集大成のような大作が「仁義」である。以前、アル中の話でも書いたことがあるが、イブ・モンタンとアラン・ドロンが初めて共演した。
口を割らずにひとりで5年つとめあげ、出所してすぐに昔の仲間に貸しを取り立てにいくが、トラブルで金が入らず宝石店襲撃を計画するのがアラン・ドロン。元警官で今はアル中の射撃の名手がイブ・モンタン。彼は宝石店襲撃の仲間になる。
主要な男たちは5人。列車で護送される途中に逃げ、ドロンと出会って宝石店を襲うジャン・マリア・ヴォロンテ。ヴォロンテに逃げられ、捜査中に宝石店襲撃犯を知る警部がブールビル。
ヴォロンテの昔の仲間で射撃のプロを斡旋するのが、ナイトクラブを経営するフランソワ・ペリエ。
ここでも、メルヴィルは究極の設定をする。ヴォロンテが昔の仲間であるペリエを頼ると踏んだ警部は、彼の大学生の息子を微罪で逮捕し、その釈放を条件にペリエの口を割らそうとする。
そのやり口の卑劣さに怒り、最初は裏切らなかったペリエも、息子が20年以上の刑になると恫喝されると、気持ちが振れ始める。ペリエの息子を微罪で逮捕し服に麻薬を入れ陥れたのは警部であり、そのことを気付いているペリエだが、警察権力が無実の息子を20年の刑にするくらいのことは平気でやると知っているから、息子を愛する彼は絶体絶命の窮地に落ちる。
このシーンで、卑劣な罠を仕掛けるブールビルに対して不思議と反感は湧かない。彼は、自分のしている卑劣さを自覚しているし、そのことは彼のプロ意識のなせるわざなのだ。彼もまた、犯人逮捕という目的のためには手段を選ばない非情さを持つ、有能なプロフェッショナルなのである。
息子への愛情、仲間への友情、そして裏切り。
ペリエは裏切り、罠と知らずにドロンは盗んだ宝石をブールビルが化けた故買屋に売りに出かける。何かを感づき、ドロンを救おうと、ヴォロンテは警察が待つ罠の中に飛び込んでいく。
「仁義」では、もちろん友情も描かれる。逃亡中のヴォロンテはドロンの車のトランクに身を隠す。検問を無事に抜けた後、ドロンは人のいない原っぱに車を駐め、トランクに向かって「もう大丈夫だ」と言う。トランクの中にあった拳銃を構えてヴォロンテが現れる。逃亡犯が隠れているのを知りながらかばった理由を彼はいぶかる。
ドロンがジタン(ゴロワーズだったかも)を取り出し、1本くわえてから投げる。受け取るヴォロンテ。ドロンは自分のタバコに火を付け、マッチを投げる。二人の間はキャッチボールが出来るくらいは開いているだろうか。マッチを受け取り火を付けるヴォロンテ。ドロンが「今日、出所したんだ」と言う。紫煙が流れて、無言のふたり。
ふたりの友情はそれだけで成立する。男同士の友情、男女の愛情は、タバコという小道具を使って表現されることがある。映画は視覚的に表現するから、火を付けてやるのは友情や愛情の証なのだ。
「さらば友よ」のラストシーンで警察に連行されるブロンソンに火を付けてやるドロン、「脱出」の中でローレン・バコールに火を付けてやるハンフリー・ボガート。そして、「仁義」のドロンとヴォロンテ。これを3大タバコシーンと僕は名付けている。
さて、メルヴィルの映画は「俺の目を見ろ、何にも言うな」に近い世界でもあるが、男たちも、男と女も、アイコンタクトだけで意志を通じ合わせる。セリフはほとんどない。
「リスボン特急」では、ナイトクラブの経営者で銀行強盗のリチャード・クレンナと警部のアラン・ドロンは親友であり、ドヌーブはふたりを愛している。ドヌーブはクレンナの犯罪を手伝いながら、ドロンとも寝ている。
この映画は、3人がそれぞれに交わす視線の映画である、と断言してもいいくらい、登場人物同士の視線の交錯を見逃すと、物語を理解し損ねる。1シーンしか登場しないが、男娼の密告屋がドロンに向ける視線も凄い。あの女装の密告屋は、頬を張られ冷たくされても警部を愛しているのだ。
「リスボン特急」は、どこまでセリフを削れるか試したような映画で、最初の銀行強盗のシーンもほとんど現場音だけ。途中の列車のシーンは、20分ほどまったくセリフがなく、列車の音だけである。
そんな寡黙で禁欲的なメルヴィル映画の影響を受けているのは、北野たけしではないかと、僕は睨んでいる。言葉で語らず映像で語る、スクリーンから目が離せない映画。北野ブルーと呼ばれる青を基調にしたモノトーンの色彩設計。主役の二人を聾唖者に設定した究極の「あの夏、一番静かな海」は、その発想の根底に「海の沈黙」があるような気がしてならない。
メルヴィル映画の放映やビデオを見つけたら、ぜひ、見て欲しい。メルヴィルの映画を見逃しているということは、人生の深さを学ぶチャンスを逃しているということである。
人生は、本当は四つの要素で出来ているのである 。
夢と友情と裏切りと……(それらを描いたメルヴィルの)映画と、である。
■2000年3月25日掲載
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、すでに二十数年勤める。現在は隔月刊のアマチュア向けカメラ誌編集長。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】 No.0564 2000/03/25.Sat.発行より転載
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