03/04/25 掲載
十河 進
■リターン・オブ・悪党パーカー
昨年、人気スターのメル・ギブソンが主演したので派手に宣伝された「ペイバック」のおかげで、永らく絶版になっていた「悪党パーカー・人狩り」が復刊された。同時に23年ぶりに悪党パーカー・シリーズの新作も出版された。
シリーズ本を揃える趣味はあまりないが、パーカーシリーズだけは絶版になっている角川文庫版を含めて全冊持っている。だから、復活シリーズももちろん買った。しかし、これが読めない。去年出た「悪党パーカー・エンジェル」は読み始めて30ページくらいでつまずいてしまった。
復活第2弾「悪党パーカー・ターゲット」も今年の2月に書店に並んだ。こちらも買ったが、まだ読み始めていない。懐かしい強盗仲間に再会したというのに何だか読めない。こちらが年とってしまったのだろうか。しかし、中断したシリーズ物を23年ぶりに書き始めるとは、作者リチャード・スタークにどういう心境の変化があったのだろう。
「悪党パーカー」の第一作目(1962)が出た時に、翻訳家の小鷹信光さんがハヤカワズ・ミステリマガジンのコラムで紹介した内容を未だに覚えている。パーカーはプロの犯罪者で、人は平気で殺すし、死んだ妻の顔を身元不明にするために平然と切り刻む。
そういうアンチ・ヒーローのシリーズが登場し、衝撃を与えている、作者はリチャード・スタークという新人だが、ハードボイルド作家ドナルド・E・ウェストレイクではないか、などという内容だったと思う。いや、その時点ではまだ作者の正体は割れていなかったかもしれない。
したがって、1作目は小鷹信光の翻訳で、1966年に早川ポケットミステリの1冊として出版された。初期の数冊は片岡義男も訳している。片岡義男が小説家デビューする前の仕事だが、すでにあの独特の文体を使っていて、即物的で心理描写のないパーカーものの翻訳には向いていた。
片岡義男の小説も徹底して行動と会話だけしか綴られない。もしかしたら、悪党パーカーを翻訳したことが、その小説のスタイルを作り上げるうえで大きな影響を与えたのではないか、とさえ僕は類推している。小鷹信光のエッセイによれば、片岡義男はこのシリーズを相当気に入っていたようなのだ。
このシリーズでパーカーの内面が語られることはない。行動と口に出した言葉、それ以外は描写されないのである。パーカー以外の脇の人物たちは、内面が描写されるのに、パーカーだけは「したこと」と「言ったこと」だけしか綴られない。そのことがパーカーの非情さを際立たせる。
こう書くと、ヘミングウェイが作り出したハードボイルドの文体がそうだ、と言うかも知れない。確かにヘミングウェイの「殺人者たち」を代表とする短編群は、情景描写と行動と直接会話だけで綴られていたが、いわゆる正当派ハードボイルド探偵ものは、ほとんどが一人称で綴られていることを思い出して欲しい。
一人称の文体は、いくらでも語り手のキャラクター付けが可能だ。彼が何に嫌悪し、何に共感し、どういうことを言い、どう行動するか、すべて読者に知らされるのである。彼の生き方の哲学を語り、警句を吐き、そして、その語り口さえ、語り手の性格を作り出すのだ。
もちろんハードボイルドだから直接的に「哀しい」とか「怒りを感じた」などとは語られない。洗練された間接的な表現が多用される。したがって、レイモンド・チャンドラーのように警句を散りばめ、洒落た比喩の多い表現になりがちである。
いわゆるハードボイルド探偵ものの場合、読者は一人称で語られる主人公のものの考え方、その哲学や人格に共感し感情移入するのである。最近は女探偵も増えたから、ウォーショースキーやキンジー・ミルホーンなどのヒロインのライフスタイルや考え方が女性読者に共感を呼ぶのだ。
しかし、完全な客観描写を貫き、何を考えているのか、喜怒哀楽をまったく表に出さず、ひたすら強盗のプロフェッショナルとして行動するパーカーは、最初から読者の感情移入を拒否するアンチ・ヒーローとして創造された存在だ。感情のない機械のようだ、という評もある。
第一作「人狩り」は、仲間と妻に裏切られたパーカーがニューヨークに現れるシーンから始まる。彼の目的は復讐ではなく、裏切られて持ち去られた金を取り返すことである。マルという男は略奪に成功した後、仲間たちを殺しパーカーも妻に撃たせて、金を独り占めにして逃げたのだ。
パーカーは、マルが独り占めした金をすべて奪い返すのではなく、自分の分け前だけを取り返すのが目的である。彼にとっては、人は裏切るものであり、その裏切りを予知できなかった自分はプロにあるまじきミスを犯したのであって、そのことに復讐するのは意味のないことなのだ。
彼は妻のアパートを探し当てるが、妻はパーカーが生きていたことに驚き、自分を殺しにきたのだと怯え自殺する。パーカーは妻のところに月に一度、マルの使いで金を届けにくる男がいることを聞き出し、その男がくるまでアパートに潜むために、妻の死体を全裸にして公園に捨て、新聞に写真が載らないように顔を刻む。
ここまでのストーリーを読んで、このパーカーという主人公に感情移入できますか? 実は、パーカーはこの一作だけで死んで終わるはずだった。そのため、徹底的なアンチ・ヒーローにしたのだろう。だが、この後の展開を読むと「いいですよ、これ。シリーズものにしましょう」と言って作者に結末を書き変えさせた編集者の気持ちもわかる。
翻訳が出た当時、ハヤカワズ・ミステリマガジンで新刊書評コラム(「地獄の仏」だったか「極楽の鬼」だったか)を担当していた石川喬司は、「僕はパーカーが組織に挑戦していくところでカタルシスさえ覚えた」と書いていた。
マルは金を組織に上納し、組織の一員におさまっていた。パーカーはマルを殺し、組織の幹部に「俺の金を返せ」と迫っていく。マルが渡した全額ではなく、自分の取り分だけ、というのがプロフェッショナルらしいこだわりである。
つまり、世の中の善悪の基準は別にして、パーカーにとっては略奪は仕事であり、仕事によって得た正当な報酬の返還を要求しているだけなのである。略奪が仕事だから、邪魔する人間を殺すことは仕事の一環なのである。そこに人間的な感情や苦悩は存在しない。
しかし、石川喬司も書いていたように組織に安住する奴らを、一匹狼の犯罪者が慌てさせていくという展開は確かに痛快である。ナンバー2で話がつかないなら「お前を殺してその上のボスに話すまでだ」というパーカーの姿勢には、巨大組織に対する怯えなど微塵もない。痛快な反体制ヒーローである。
この「人狩り」は「ポイント・ブランク」というタイトルで映画化されたことがある。だから「ペイバック」は2度目の映画化だ。「ポイント・ブランク」というタイトルが気に入ったのか、その後、スタークは原作も「ポイント・ブランク」に改題した。
日本では1967年に「殺しの分け前 ポイント・ブランク」として公開された。監督はジョン・ブアマン、主演はリー・マービンで、なぜか主人公の名前はウォーカーに変わっていた。手足が長く、それを投げ出すようにソファに座るリー・マービンの姿が浮かんでくる。もちろん片手には拳銃。
リー・マービンはテレビシリーズ「シカゴ特捜隊M」で日本のお茶の間にも顔が売れたが、主役がとれるご面相ではない。もちろん僕は大好きな俳優だった。最近の俳優ではケビン・ベーコンが何となく似てきたが、マービンの男臭さにはまだ及ばない。
原作にはない役だが、裏切った妻の妹でウォーカーに協力するのがアンジー・ディッキンソン。百万ドルの脚線美で売り出したハリウッド女優だ。「リオ・ブラボー」の網タイツ姿を見て僕はファンになった。あのジョン・ウェインがクラッとくる役だ。13歳の少年はもっとクラッときた。
アンジー・ディッキンソンは、だいぶトウが立ってからテレビシリーズ「女刑事ペパー」に主演した。オープニングタイトルのバック映像は、ディッキンソン自慢の脚線美を見せるために螺旋階段をペパーが降りてくる設定だった。
話はそれるが、リー・マービンとアンジー・ディッキンソンが共演したもう一本の映画は、ドン・シーゲル監督の「殺人者たち」(1964)だ。もちろん原作はアーネスト・ヘミングウェイ。有名な「THE
KILLERS」である。
この映画では、後にレーガン大統領になるロナルド・リーガンが卑劣な悪役を演じ(俳優時代はいつもこんな役だったし、大統領になっても卑劣な悪役だった)、アンジー・ディッキンソンがその情婦を演じた。リー・マービンはもちろん殺し屋。このマービンもグッド、です。
ドン・シーゲル版「殺人者たち」もリメイクで、最初の「殺人者たち」ではエドモンド・オブライエンが保険調査官を演じ、抵抗せずに殺された男(バート・ランカスター)の謎を追った。シーゲル版で謎を追うのは殺し屋たちだが、殺される男は名監督で俳優のジョン・カサベテスだった。
さて、3作目の「悪党パーカー・犯罪組織」は本格的に組織(アウトフィット)に挑戦していくストーリーだが、これも「組織」(1973)というタイトルで映画化された。後にアメリカのローレンス・オリヴィエとまで言われることになる「ゴッドファーザー」の弁護士トム・ヘイゲンことロバート・デュバルが主演した。
角川文庫から出ていたシリーズ7作目「悪党パーカー・汚れた七人」も1968年に映画化されている。主人公を元アメリカン・フットボールの黒人選手ジム・ブラウンが演じ、アーネスト・ボーグナインやドナルド・サザーランドなど役者は揃っていた。鍵を握る7番目の男ジーン・ハックマンが印象に残る映画だった。
シリーズものの面白さは、おなじみの脇役たちが魅力的であることだ。パーカーが非情で愛想がないだけに、スタークは強盗仲間にいろいろな個性を配した。中でも夏は移動劇団を主宰し、それ以外の季節は劇団を維持するために強盗をして資金を稼ぐ俳優強盗アラン・グロフィールドが陽気な個性で楽しませてくれる。
アラン・グロフィールドは8作目「悪党パーカー・カジノ島壊滅作戦」の後、独立して自分のシリーズを持ち4作主役を張ったが、14作目「悪党パーカー・殺人遊園地」で再びパーカー・シリーズに戻り脇を固めた。
パーカー・シリーズの最後だと思われていた大作「殺戮の月」(1974)は、それまで登場した強盗仲間たちが一堂に会して、俳優強盗アラン・グロフィールドを救い出す話である。まさに、オールキャストの超大作だった。
パーカーたちは、グロフィールドに友情を感じて救おうとするのではない。怪我をして捕まった仲間は自分の力で逃げ出せばいいし、駄目なら死ぬまでだ、というのがパーカーたちプロの哲学だ。
パーカーの目的は金を取り戻すことであり、そのための手段としてグロフィールドを組織から救い出すのである。パーカーが声をかけて集めるかつての仕事仲間たちも、略奪が目的である。しかし、組織に刃向かう一匹狼たちの逆襲は実に痛快なんですね。
恃むのは己だけ、というプロフェッショナルたちがひとつの目的のために一時的に集まり、仕事を仕上げて再び別れ別れに去っていく。パーカー・シリーズのラストに相応しい結末だった。
ということで、すっかり気分的には区切りがついていたパーカーさんだったのに、久しぶりに復活されて、昔とまったく同じ強盗家業をやっているのが、どうも進歩がないように思えてしまう。
それにスタークが再びパーカー・シリーズを書き始めたのは、一作目の再映画化、それもハリウッド大作としての映画化(リー・マービン主演版は典型的なB級映画だった)の話があって、「また、売れるかな」と思ったから、のような気がして昔ほど熱中できないのである。
それとも、やっぱりこちらが変わってしまったのだろうか。最近、小説が馬鹿馬鹿しく思えて読めなくなりつつある。かつて心酔していた大江健三郎の「宙返り」も放り出してしまったものなぁ。
■2000年4月8日掲載
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、すでに二十数年勤める。現在は隔月刊のアマチュア向けカメラ誌編集長。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.0576 2000/04/08.Sat.発行より転載
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