03/07/11掲載
十河 進
■マディソン郡の橋で待つ
●ミドルエイジ・クライシス
ケネディとフルシチョフがキューバのミサイル基地を巡って対立し、あわや第3次世界大戦没発かと思われた「キューバ危機」(1962年10月)は「キューバ・クライシス」を訳した言い方だが、crisisには「危機、重大局面、難局」といった意味の他に「(運命の)分かれ目」という意味もあるようだ。
そのクライシスをもじった言い方がいくつか使われているが、「中年クライシス」つまり「中年の危機」などもそのひとつだろう。以前に同タイトルの本(河合隼雄・著)を読んだことがある。今は朝日文庫に入っているはずだ。
少し前に「中年男に恋はできるか」という新書が出て、新聞の読書欄などに取り上げられた。僕も少し興味はあるのだが、そんなタイトルの本をレジに出すのがためらわれて、まだ読んではいない。
しかし、「できるか、できないか」は別にして、中年の男女は「恋をしたがっている」と思う。
数年前に「マディソン郡の橋」がベストセラーになった。朝日新聞の書評欄に掲載された沢木耕太郎の文章は誉めているのかどうかわからない書き方だったが、その内容は確実に読者を刺激したはずだ。僕も興味が湧いて翌日の午後に書店に行ったのだが、一斉に「マディソン郡の橋」が消えていた。
再び店頭に本が並ぶまでには、2週間ほどかかった。それからは、火がついたような勢いで売れ続けた。あの本が売れた最大の理由は、50歳を過ぎた男女の恋愛、だと思う。それも現代に合わせて、数日間セックスに溺れるという設定にしたからだろう。今や、プラトニックな恋愛など、嘘っぽくて誰も信じない(へそ曲がりの僕は信じていますがね)。
沢木の書評で興味を掻き立てられはしたが、大勢の人が群がるのを見ると嫌になる元来の性格から、ベストセラーリストから外れて人々が興味を失った頃にようやく僕は読んだ。人々が熱狂したのはわからないではないが、あの小説で僕が最も共感したのはヒロインの夫である。
彼は「おまえにはおまえの人生があったのだろうが…」と、ヒロインの充たされない心の奥まで理解していたことを伺わせる言葉を吐いて死んでいく。唯一、あの本で僕が涙ぐんだ場面だ。ヒロインがたった数日間一緒に過ごした男を生涯愛したように、彼を愛してくれた女はいたのだろうか。
ストーリーは基本的に「いい気なもんだ」と思う。50歳を過ぎているといっても、ヒロインが恋する男は独身でナショナル・ジオグラフィック誌(アメリカでのステータスと知名度は異常に高い雑誌だ。1枚の写真にかける制作費と原稿料も高いらしい)の契約カメラマンである。放浪する孤独な中年男。実にかっこいい。
構図は「シェーン」(1953)である。農夫の夫とさすらいのカウボーイ。女が惚れるのは必ずさすらいのカウボーイだ。農夫の夫は誠実で思いやりがあっても、熱烈な恋愛の対象にはならない。「マディソン郡の橋」でも、一目見た瞬間にヒロインは男の性的な魅力にときめいている。
一目で惹かれ、ときめきを感じて橋にメモを貼り付けるヒロイン。何という少女小説的設定であることか。セックスに耽る場面もロマンチックに描写し、やがてやってきた別れとその後の数十年にわたるふたりの想い、というように実は「マディソン郡の橋」は精神的な部分を強調するけっこう古いパターンなのだが、だからこそベストセラーになった。
道を尋ねたカメラマンに強烈なセックスアピールを感じ、積極的に誘惑して数日間、家にこもってセックスし続けるというストーリーだけでは、単なるポルノグラフィになってしまうもんね。
●映像だけで伝えた男女の切なさ
「マディソン郡の橋」(1995)はアメリカでもベストセラーになった。その結果、我が愛する映画人クリント・イーストウッドが監督主演をすることになる。ヒロインは、「あたし、うまいでしょ」的演技のメリル・ストリープ。キャスティングとしては妥当なところだろう。
イーストウッドは若い頃には大根役者(英語では俗にHAMなどと言うらしい)と言われた。歳をとってからは、どんどんミステリアスな表情と演技をする人になっている。「優しさと残酷さ」「愛と憎しみ」「困惑と決断」のように対立するふたつの感情を同時に表しているような演技をする。
そのイーストウッドの複雑な感情を見せる演技が冴え渡ったのが、別れを決めた後のシーンだ。
男と別れたヒロインは、夫と町で買い物をし車で帰ろうとする。その前に男の運転する車が現れる。2台は信号に引っかかり、男の車の左折を示すウィンカが点滅する。
ルームミラーで後ろの車内を見つめるイーストウッド。点滅するウィンカ。信号機のアップ。メリル・ストリープの表情、その視線。ドアロックのアップ。この数分のシーンに、映画の総てが凝縮されているようだった。
原作を読んでいたから、この後の展開はわかっていた。しかし、僕にはヒロインの心の中の葛藤が手に取るようにわかった。抱えた買い物袋を投げ捨て、ドアロックを引いて飛び出し、男の車に乗るヒロインの姿さえ浮かんだ。
ヒロインにはイーストウッドの後ろ姿しか見えない。しかし、彼はヒロインを待っている。「一緒に行こう、こっちの車にくるんだ」と背中が誘っている。ウィンカの点滅がヒロインを促しているようだ。信号が変わりそうになる。
このシーンの編集は素晴らしい。ウィンカの点滅を唯一の動きとした映像のアイデアは見事だ。やはりイーストウッドはただ者ではない。ラブロマンスで、あんなにサスペンスを感じたことはない。
信号が変わる。イーストウッドの車は左折し、夫が運転するヒロインの車は直進する。別れは実にあっさりした映像だが、そこに込められたふたりの気持ちは観客に確実に伝わったはずだ。切ない想いが残るシーンである。
だが、映画全体で言えば原作に忠実なだけに、やはり「いい気なもんだ」ストーリーになってしまった。
●なぜ「いい気なもんだ」と感じるのか
若い頃、僕は中年になったらおしまいだと思っていた。「人生の堕落は腹の出具合に比例する」と中年の堕落と共に中年太りをも批判していた。当時の僕は若い頃の小倉一郎(最近は今村昌平監督の「カンゾー先生」に出ていた)みたいに痩せていた。
中年になってしまった今、まだまだ続く人生にうんざりしながら、せり出した腹を子供たちに戯れに叩かれる日々を過ごしている。数年前は長塚京三に似ていると言われたこともあったが、最近は伊東四朗に似ていると言われる。20年前に比べて体重は20キロ増えた。
「禿、デブ、眼鏡」というありがたくない三重苦的言い方がある。「いやらしい中年男」の典型(パターン)を示している。今の世の中は、中年の、特に男にとっては厳しい状況である。歳をとっているだけでは大事にされないし、父権(夫権)喪失、社畜など、中年男を蔑む言葉は溢れている。
うらぶれた、情けない、うちしおれた、うなだれた、わびしい、などの形容詞の後に「中年男」と続けると、何とピッタリくることか。溌剌としたイメージは中年男にはない。さらに、中年男=欲求不満というステレオタイプのイメージも浸透しているから、電車の中で痴漢容疑で若い男と禿・デブ・眼鏡の中年男が捕まった場合、多くの人は中年男が真犯人だと予見を持つ。
それだけ貶められている中年の人々にとっては、どんな物語もよほどのリアリティがないと「いい気なもんだ」になってしまうのではないか。その「いい気なもんだ」の中には「そんなことあり得ない」とか、「嘘っぽい」といった反感だけではなく、「そんなことはわかっている、でも不可能だ。いや、やっちゃいけないんだ」という要素もあるのではないか。
本当は俺もそうしたい、でも、やっちゃいけないんだ、とジレンマを感じながら日々を自制して生きているのに、物語の中の人物たちはその自制していることをいとも簡単に越えてしまう。そこに「いい気なもんだ」を感じるのではないだろうか。
人々が共感するのは「ああ、そうだよなあと、身につまされる話」か「あんな風になりたいと、単純に憧れる夢のような話」だという。中年男女の恋愛物語は「ああ、そうだよなあと身につまされつつも、夢のような話になる」危うさの上に成立させなければならない。
つまり「身につまされる、夢のような話」という矛盾する要素を、読者や観客に納得させなければならないのだ。これは、かなりの手練れでもむずかしい。
元々、恋愛なんて「いい気なもんだ」と見られがちである。周囲の人間を傷付け、ふたりだけで盛り上がっている状態であるし、そんな感情は長く保たないことを中年男女は経験的に知っている。
だからこそ、かつえるように「ときめきたい」「恋がしたい」と思っているのだが、それが「見果てぬ思い」「叶えられぬ夢」だということも知っている。いや、思い知らされている。
それならいっそハーレクインロマンスを読む方がいいし、現実をつかの間忘れさせてくれる冒険小説やミステリを読む方がましだ。「ローマの休日」(1953)や「麗しのサブリナ」(1954)を見て身につまされはしないが、農家の平凡な中年の主婦という設定に代表されるラブ・ストーリーでは、どうしても我が身に近づけて見てしまい「いい気なもんだ」となる。
だが、「マディソン郡の橋」は多くの人に受け入れられた。そこには、巧妙な仕掛けがある。あの本は実話を装っている。「中年の男女が一目で惹かれ合い、数日の濃密な時間を過ごし、その後、一度も会わなかったのに死ぬまでの数十年間、ずっと愛し合っていた物語」を母の死後に子供たちが日記の中に見付け、作家のところに持ち込んでくる設定にしているのだ。
実話だと思いこんだ人は多い。だから「信じられないけど、感動的な話」としてベストセラーになった。
●身につまされた中年男女の恋愛
去年のゴールデンウィークに単館ロードショーだった「コキーユ 貝殻」(1999)という映画を見に行った。監督が「桜の園」(1990)と「12人の優しい日本人」(1991)の中原俊だったからだ。原作は山本おさむのコミックである。
中学の30年めの同窓会シーンから映画は始まる。主人公(小林薫)は地元の工場に勤める真面目な中間管理職で人望もある。久しぶりに会った級友たちは昔話に花を咲かせるが、その時に30年ぶりに出席したヒロイン(風吹ジュン)のことが話題になる。
風吹ジュンは中学卒業と同時に東京へ家族で引っ越して行ったが、結婚に失敗し故郷に戻りスナック「コキーユ」を始めているという。友人が「昔、おまえに惚れていたんだぞ」と冷やかすが、主人公はヒロインのことさえ覚えていなかった。
2次会に流れ、カラオケとダンスが始まる。風吹ジュンは小林薫をダンスに誘い、「今度、お店にきて」と耳元で囁く。しかし、小林薫は「えっ」と聞き返す。ここで彼の左の耳が聴こえないことがわかる。その時のヒロインの表情が、この映画の伏線である。
主人公は女の店に通い始める。不器用な通い方だ。少しずつ、ふたりは惹かれ合うが、男は自制する。会話の中で、次第に昔のことを思い出す。やがて、中学卒業間近のある日、校舎の渡り廊下で彼の耳元で何かを囁いてすれ違った少女がいたことを鮮明に甦らせる。
光溢れるハレーション気味のシーンに中学生の男女が登場し、輝くばかりに溌剌とした少女が彼女の決意を示す表情で、それでも恥じらいながら少年の耳元で何かを囁いてすれ違う。映画は、記憶の中の美しいシーンを描いてくれる。
もう、わかっただろうか。少女は少年と別れ別れになってしまう前に決心をして、「○○橋で今日の○時に待っています」と囁いたのだ。彼女が橋の上で待ち続けるショットが何度かインサートカットに使われる。
「ああ、あの時、少女が囁いたのが主人公の左の耳ではなく右だったら……」
映画を見ていた全員がそう思ったことだろう(だとしたら物語は成立しないのだが)。彼女のクライシス(運命の別れ目)は、彼の左耳が聴こえないことを知らなかったことだ。人生は、たったそれだけの行き違いで大きく狂ってしまうものなのだと、我が身を振り返って思わされる。
人生は変更不能だ。変更不能であり、悔やんでも過去は変わらないことを思い知らされている中年男女だからこそ、「もう一度、あの橋の上からやりなおしたい」と言うヒロインのセリフが身につまされる。ヒロインの30年間の想いが、切ないほど伝わってくる。
私の耳は貝のから
海の響をなつかしむ
ヒロインがつぶやくジャン・コクトーの詩(堀口大学訳詩集「月下の一群」中の一編)が重要な場面で使われていたが、見終わっても耳に残るフレーズだ。今も時々、帰宅途中の電車の中で窓の外の夜景を見つめながらつぶやくことがある。
■2000年7月8日号
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、すでに二十数年勤める。現在は隔月刊のアマチュア向けカメラ誌編集長。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.0647 2000/07/08.Sat.発行より転載
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