03/07/18掲載
十河 進
■破滅への甘い誘惑
●まっとうな小市民としての生活
僕は、まっとうな人生を送ってきた方だと思う。いや、何をまっとうと言うかは人それぞれ違うから、別の言い方をすれば、平均的かつ常識的な人生を送ってきた方だと言い換えよう。もっと別の言い方をすれば、レールから外れたことのない面白みのない生き方だったのかもしれない。
生まれた家は貧乏だったが、父母は健在で地道に働き、僕と兄を育て上げた。あろうことか、僕は東京の私立大学まで出してもらった。もちろん、いろいろなアルバイトはしたが、部屋代を払って喰っていけるだけの仕送りはしてもらった。
就職の時にオイルショックにぶつかったから少し苦労はしたが、最終的には希望していた出版業界の端っこに潜り込めた。その年には、高校時代の同級生と結婚した。7年後に長男が生まれ、その3年後に長女が生まれた。会社は26年間、給料を支払い続けてくれた。チバラギ県と言われる千葉県の外れだが、とにかく団地の一室は手に入れた。数年前には管理組合の理事も務めた。
犯罪をおかしたことはない(自転車の無灯火などの軽犯罪はある)。女性に狂ったこともない(恋をしたことがないわけではない)。ギャンブルにはまって借金をこしらえたこともない(若い頃、麻雀で大きく負けたことはある)。因縁をつけられて殴られたことはあるが、人を殴ったことはない(時々、会社のトイレで壁を殴ることはある)。
だが何となく、そういうことを誇っちゃいけないな、と思う心がある。いや、恥ずかしいことなんだと思えて仕方がない。こんな安定した小市民のような生活を送っていていいのか、と責める声が時々する。酔っ払って破滅的になる、こともある。
「生きてること、やってる仕事。家を持っていること、家族があること。そういうものに何かしら恥ずかしさがつきまとう。それでいてそれをちっとも放棄できない、ふしだらでだらしない自分にも、恥ずかしいわけなんだが…」
まだ「仁義なき戦い」(1973)を撮影している頃のインタビューで、菅原文太が高平哲郎にそう語っている。同感だ。気持ちはとてもよくわかる。
●一直線に破滅へ向かう男と女
「リービング・ラスベガス」(1995)の主人公は、登場した時から重度のアルコール依存症である。アル中の役をやればアカデミー賞が獲れるというジンクスがあるが、この映画でニコラス・ケイジも主演男優賞を獲得した。
ハリウッドの脚本家ベンがなぜアルコール依存症になったのかは、まったく説明はない。仕事仲間からは疎まれ、家族には捨てられ、会社もクビになる。その退職金を持って「飲み続けて死ぬ」ためにラスベガスへやってくる。
なぜラスベガスかというと、酒を24時間いつでも売っているかららしい。そのことは映画ではわからなかったが、小林信彦のエッセイを読んでわかった。主人公の設定は、ほとんど原作者ジョン・オブライエンそのままらしく、原作者も飲み続けて死んでしまう(自殺だったと思う)。
それを知ったうえで見たから、映画からは異様な迫力を感じた。ラスベガスへ着いてから知り合うサラ(エリザベス・シュー、名演です)も、プロフェッショナルな娼婦という感じでとてもいい。かなりハードなセックスシーンもこなしている。
凄いのは、主人公が本当に飲み続けるだけの映画であることだ。娼婦を買っても不能だし話をするだけなのだが、そのニコラス・ケイジの演技から「生きる切なさ」のようなものが滲み出す。
もしかしたら、アルコール依存症にもならず、普通に生きていられる人間は、ものすごく鈍感なのではないか、そんな気がしてくる。
最初の方で、主人公を疎んじる仕事仲間が登場するが、ビジネスマン風でしっかり仕事の話を切り回しているのに、その人間がどうしょうもなくスクウェアで繊細さのない俗物に見えてしまうのだ。
素面で生きていけるほど、人生は簡単ではない、繊細な人間はベンのようになってしまうのではないか、と主人公に感情移入する。
娼婦のサラは、自分の仕事にある種の誇りを持ち「払った金額に見合うことはするわよ」とプロフェッショナルな生き方をしているのだが、ベンの繊細さに触れ恋愛関係というより人間同士の魂が触れ合うような関係になる。
もちろん「甘ったれるんじゃない」と、ベンに向かって言うのはたやすい。だが、もしかしたら、俺もああなっていたんじゃないか、と思わないだろうか。
僕たちは、本当の弱い部分を覆い隠し、傷つかないようにするために攻撃的になったり、仕事に打ち込んだりしているのではないか。競争し、他人を騙し出し抜き、金を稼ぎ人よりいい生活をしようと、魂の話をせずに鈍感さを装っているのではないのか、そんな風に思えてくる。
魂のはなしをしましょう 魂のはなしを
そう書いたのは詩人の吉野弘だが、ベンとサラは魂を触れ合わせ、破滅へと突き進む。現代では、こんなふたりは破滅へ、ただ破滅へと堕ちていくしかないのかもしれない。
●堕ちていく男のどうしょうもない切なさ
柳町光男監督の「さらば愛しき大地」(1982)を見た時も奮えるほどの「生きる切なさ」を感じた。
トラックの運転手が覚醒剤依存症になり、やがて幻覚の中で同棲中の女を殺してしまう、という三面記事のような話である。だが、圧倒的な映像の力は、そんな犯罪実話のようなストーリーから人生の真実、人生の核のようなものを提出してくれるのだ。
幼い二人の子供がボートから落ちて浮かび上がってこないシーンから映画は始まる。ここはワンカット撮影のように見え「どうやって撮ったんだろう、本当に死んじゃうぞ」と思わせる。観客を一気に映像の中に引きずり込む。
子供たちを亡くしたことから幸雄(根津甚八)は、背中に弔いの文言を刺青として彫り込む。ある日、なじみの酒場の女(秋吉久美子)をトラックに乗せ、話の行きがかり上、背中の彫り物を見せることになる。それをきっかけに魂を触れ合わせたふたりは、家族を捨て一緒に暮らし始める。
やがて、幸雄は仕事仲間に誘われ覚醒剤に手を出す。ここは、本当に打っているんじゃないか、と評判になったシーンだ。柳町監督のリアリズムにこだわる演出と映像で、画面は異様な雰囲気を孕み始める。
覚醒剤中毒が進んだ幸雄がぼんやり外を見つめると、鮮やかな緑の森が風に大きく揺れる。そのハイスピード撮影のショットが素晴らしい。ヘリコプターで風を起こして森を揺らしたという。
黒く隈の目立つ落ち窪んだ眼窩、うつろな視線、中毒が進んだ状態を演じる根津甚八の演技も特筆ものだ。彼の演技力がなかったら、ただの犯罪実話映画になってしまっただろう。根津の姿から迫ってくる破滅していく男の切なさや悲しみは、映像でしか描けないものだった。
●身代わりに破滅してくれる男たち
「さらば愛しき大地」にしろ「リービング・ラスベガス」にしろ、主人公たちは否定される存在だ。世の中は、もっときちんとまっとうに、人に迷惑をかけず生きていかなければならない。
働いて金を稼ぎ、税金を払い、社会保険料を支払い、ゴミは決められた日に出さなければならない。通勤電車は三列に並んで待たなければならない。降りる人が終わってから、押し合わずに乗らなければならない。業務命令には従わなければならない。部下は誉めて育てなければならない。
だが、普通にまっとうに生きることは、時々、無性に恥ずかしい。嫌だ、というのではない。安定した小市民生活は、小心者の僕にとっては精神衛生にとてもいい。今さら、波乱のある破滅的な人生を送りたくはない。できれば、この安定がずっと続くことを願ってもいる。
それでも、破滅へ、ただ一直線に破滅へ向かう男たちの心情が切なく僕の心を締めつける。
彼らは、俺の代わりに破滅してくれている。彼らの破滅の人生を見ることによって、彼らの破滅がカタルシスを与えてくれることによって、俺は破滅への衝動に耐え、小市民として生きていけるのだ。彼らは俺の身代わりだ。
そんな風に思うことはありませんか?
■2000年7月15日
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、すでに二十数年勤める。現在は隔月刊のアマチュア向けカメラ誌編集長。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】 No.0653 2000/07/15.Sat.発行より転載
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