118いい輪
> Play It Again,Sam〜映画まじりで魂の話を〜 > バックナンバー一覧

03/08/29掲載

十河 進

■男たちの絆

●男たちを魅了する友情と裏切りの物語

男は時に女性との関係より、男同士の関係を優先することがある──なんて書くと、フェミニストたちから叱られるかもしれないなあ。「そもそも『男は』なんて書くこと自体がマチズムなのよ。『人は』と書きなさい」と怒る田嶋陽子教授と上野千鶴子教授の顔が浮かんでくる。

しかし「人は時に異性との関係より、同性の関係を優先することがある」と書いても、何だか意味不明だ。僕も女同士の友情をテーマにした「フォーエバー・フレンズ」(1988)はとても好きだし、時に恋愛より友情を優先する女性もいると思うが、僕は男だから「男同士の友情」という言葉には涙腺を刺激されやすい。

松本零士の漫画(「男おいどん」だったか)で、「男同士が仲良くしているとホモだ、男色だと言われるような世の中にいつからなった!」と主人公が嘆き怒る場面があった。その主人公の嘆きには同感するが、あの漫画はもう30年も以前のこと。そんなに前から「男の友情」は純粋には認知されなくなってしまったのだろうか。

男たちはハードボイルド小説や映画が好きだ。フィルム・ノアール、やくざ映画なども男性客が中心だろう。そんな物語のメインプロットには、必ずといっていいほど男同士の友情が扱われる。

レイモンド・チャンドラー作「長いお別れ」(映画版1973)のフィリップ・マーロウとテリー・レノックスの話は友情と裏切りの物語であり、ボストンの探偵スペンサー・シリーズを読む楽しみのひとつは、スキンヘッドの黒人ホークに会えることである。

スペンサーは「初秋」(ハヤカワ文庫)以降、どんどん説教臭くなりストーリーの差がなくなっているのでタイトルは忘れたが、その後の諸作の中でホークが撃たれたスペンサーを担いで帰ってくるシーンだけは鮮明に記憶している。

スペンサーとホークは、日本で言えば「昭和残侠伝」(1965〜1972)シリーズの花田秀次郎(高倉健)と風間重吉(池部良)である。「俺の目を見ろ、何にも言うな」とアイコンタクトだけですべてをわかり合える男同士なのだ。

「ユダの山羊」(ハヤカワ文庫)を読んだ時には、テロリストのアジトに向かうスペンサーとホークの姿は、なぐり込みに向かう秀次郎と重吉を思い出させた。「義理と人情、秤にかけりゃ義理が重たい男の世界」と唄う「唐獅子牡丹」が流れてくる見せ場である。

●理解し信頼しあう関係こそが理想の友

ハードボイルド小説や冒険小説では、不屈の精神を持つ友情に厚い男たちがしばしば登場する。

男たちは「何にも言わなくてもわかりあえる」関係か、軽口を言い合う、あるいは悪態をつき合う関係だが実は深く認めあっているといった、表面上はさらっとした関係に描かれることが多い。

敵対する相手に敬意と友情を感じていく関係もよく登場する。いわゆる好敵手である。追跡者であるゆえに、相手のことを最も理解する存在になる関係も同じようなものだが、例としては「逃亡者」(1993)のリチャード・キンブルとジェラード警部が挙げられる。

ハードボイルド小説や冒険小説では「俺とおまえは親友だぜ」なんて確認しあったりするベタベタした関係には描かれないのがお約束だ。男特有の恥と照れとダンディズムの表現だと思うが、言葉などなくても「あいつは俺のことを理解してくれている」と信じ合う関係を男たちが理想にしているからだ。

理解し信頼しあう関係。世界中の人間が敵に回っても「あいつはそんなことをする男じゃない」と信頼を微塵もゆるがさない友人。それこそが、男にとっての理想の友なのである。

しかし、女性作家が書く男同士の関係にはホモ・セクシャルな要素が入ってきがちである。少女漫画に「少年愛」が解禁になったのは30年ほど前。萩尾、竹宮、大島の御三家が一斉に人気が出た頃だが、女性作家が書くミステリ小説などにもホモ・セクシャルな関係が変態的な扱いではなく登場し始めた。

数年前に評判になった高村薫の「レディ・ジョーカー」の主人公の合田刑事と義兄の検事との関係は、最初から精神的ホモ・セクシャルの雰囲気を持っている。女性作家特有の描き方である。最後に主人公が刺されて危篤になり、生還した時に義兄はとうとう告白する。「僕は君を愛している」と。

●男同士の「愛している」という意味

死んでいく友人を抱きかかえ、こめかみから吹き出す血を止めようとしながら「アイ・ラブ・ユー」と言ったのは「ディア・ハンター」(1978)のロバート・デ・ニーロである。あの言葉があったことで、僕にとって「ディア・ハンター」は忘れられない映画になった。

あの「アイ・ラブ・ユー」の一言をもって、ふたりの関係にホモ・セクシャルな要素を見ようとした映画紹介や評論を読んだことがあったが、「違う」と僕は主張したい。僕はホモ・セクシャルに対して一片の偏見も持たないと断言する人間ではあるが、あのロバート・デ・ニーロとクリストファー・ウォーケンの関係にホモ・セクシャルな要素はない。

「ディア・ハンター」におけるデ・ニーロのウォーケンに対する想いは、兄が弟に対するものに近い。いや、父が息子を想う気持ちに近いのだ。東欧系移民が中心の故郷で工場で働きながら休日には鹿狩りをする仲間たち。すぐれたハンターであるデ・ニーロは、仲間たちの父であり兄なのだ。

その仲間たちが徴兵され非人間的なベトナムの戦場に送られる。前線で再会した仲間たちを、デ・ニーロは必死で守ろうとする。捕虜になり、ベトコンの賭けのためにロシアン・ルーレットを強要されるシーンは息詰まるパワーで観客に迫ってくるが、そんな状況下でもデ・ニーロは生き抜くために仲間たちを励まし続ける。

デ・ニーロは不屈の精神を持つ男だ。決してあきらめない。彼は仲間たちを守るという使命を自らに与え、そのことを己への励ましとして生き抜こうとする。彼を不屈の男にさせているのは、仲間たちへの想いであり、彼らと故郷の山で再び鹿狩りをしたいという願いである。

男が何かを守ろうとする時、その対象が男であれ女であれ家族であれ、あるいは誇りや自尊心や郷愁といった実体のない何かであれ、彼を支えるのは対象へのあふれるほどの「想い」以外に何も必要はない。その想いの中核に存在するものを「愛」と言い換えてもいいだろう。

生死を賭けたロシアン・ルーレットの緊張感の中で次第に正気を失いベトナムの裏社会に消えたウォーケンを捜すために、退役したデ・ニーロは想いを抱いて再びサイゴンへ向かう。
尋ね当てた賭場で熱狂する観客たちを背景に、デ・ニーロはウォーケンの記憶を甦らせるために再びリボルバーの銃口を己のこめかみに当て引き金を引く。愛する者のために彼は命を懸けるのだ。

そんな真似ができますか?

デ・ニーロが演じた男は特別の人間ではない。ウォーケンに対する想いの深さが彼にそこまでさせるのだ。そして、深い想いが彼をして「アイ・ラブ・ユー」と言わしめたのである。正気を取り戻した死にゆくウォーケンに自分の想いを伝えるには、それ以外の言葉がなかったのである。

「ホモ・セクシャルな要素が……」などと書いたライターたちは、そう書いた方が「今風だ」とか「流行だから」と考えたのかもしれないが、そういう人たちが増えた現在、僕は再び「男おいどん」の言葉を思い浮かべる。

男同士が仲良くしているとホモだ、男色だと言われるような世の中にいつからなった!

●あいつとダチ公だってことが俺の誇りだ

澤田幸弘という映画監督がいる。小沢啓一監督「無頼シリーズ」(1968〜1969)に助監督として付き、多忙な渡哲也のスケジュールが押さえられず、やむを得ず集団劇にした「斬り込み」(1970)で鮮烈なデビューを飾った。チンピラたちの強い仲間意識を中心に据えた映画だった。

澤田幸弘は臆面もなく男たちの友情を描く。澤田の映画に出てくる男たちは、まるで女性に告白するように「俺はあんたが好きだ」と口にする。彼らは自分の気持ちに正直なのだ。
澤田の2作目「反逆のメロディー」(1970)はGジャンにジーンズ、長髪にサングラスという異色のやくざ(原田芳雄)を主人公にした、権力に反逆する男たちの話である。

帝釈天の寺男を一時休職して参加したのが、ゲバ作と呼ばれる役を演じた佐藤蛾次郎だ。彼はこの映画の中で「破壊しろ! ぶっ壊せ!」と扇動するアジテーターである。

ゲバ作は原田と知り合い敵対するやくざの店を襲った後、「やばいから今日中に町を出ろ」と言われると「別れるっていうのかい。俺はあんたが好きなんだ。大好きなんだよ」と答える。ゲバ作の思いは強く伝わってくる。

原田芳雄と対立する組の一匹狼を地井武男が演じた。彼らは敵対する組にいながら互いに認め合う関係になる。そのふたりが酒場で待ち合わせをする場面は、30年間、僕の記憶から消えることのなかった印象深いシーンである。

地井「遅いじゃないか」

原田「遅い? 11時の約束じゃないか」

地井「何、言ってんだ。本当に会いてぇと思ったらな、1時間くらい前にきてしまうんだ。俺を見ろ。1時間、待ったぞ」

地井武男は権力と癒着する自分の組の上層部に反発し、上部団体である広域暴力団の会長を仇と付け狙っている滝川の清次(藤竜也)を匿っている。地井は藤竜也を探しにきた原田芳雄に言う。

「俺ぁ、くだらねぇ男だがよ、たったひとつだけ自慢していることがあるんだ。滝川の清次とダチ公だってことよ」

ダチ公というフレーズは、澤田映画のキーワードだ。4年後、澤田は「反逆のメロディー」の仲間たちを若返らせたような「あばよダチ公」(1974)という映画を撮る。つまり「さらば友よ」である。

若き松田優作(原田芳雄に心酔しそっくりな演技をしていた頃だ)を主演にし、大門正明、河原崎健三をキャスティングした。ただ、佐藤蛾次郎だけは変えようがなかったのだろう、同じような役で再び出演している。

澤田映画の男たちは出会い、ウマが合い、お互いを認め合う。率直に「おまえが気に入ったぜ」と言い合い、「今日から俺たちはダチ公だ」と宣言する。彼らはそれぞれ相手のことを誇りに思っている。そのことが男たちの絆だ。

男たちは友のために我が身を捨てて闘う。それは自らの誇りのために闘うことに他ならない。ある種の男たちは、他人が見れば「何を馬鹿なことを……」と思うようなことを、誇りのために行うことがある。

友を殺され(誇りを抹殺され)た男は、殺されるのがわかっていながら、権力者たちの集う場に殴り込みをかける。それは高倉健的な、お約束としての殴り込みではない。やむにやまれぬ私憤が、虫けらのように誇りを踏みにじられた個人的怒りが、彼を権力に歯向かわせるのである。

東映やくざ映画は体制的かつ権力的だったが、日活やくざ映画(ニューアクション)はアナーキーな心情を描く青春映画だった。そこにはやくざという典型に託された普遍的な青春像が描かれていた。

■2000年9月9日号

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、すでに二十数年勤める。現在は隔月刊のアマチュア向けカメラ誌編集長。

================================================================

筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】 No.0688  2000/09/09.Sat.発行より転載
「日刊デジタルクリエイターズ」サイトにバックナンバーはすべて掲載しています
http://www.dgcr.com/

 

 

←バックナンバー一覧に戻る

↑Page Top