03/09/05掲載
十河 進
■「ごっこ」のように生きていた日々
●ウィンナーソーセージが浮かんだコーヒー?
神田神保町に「ラドリオ」という喫茶店があった。確か「ラドリオ」とはスペイン語で煉瓦のことで、店内も煉瓦の壁で出来ていた。靖国通りに面した書泉グランデと小宮山書店の角を、すずらん通りの方に曲がってグランデ裏の路地を通り過ぎたところに入り口があった。
ドアを押して入ると、左手に煉瓦色をしたフェイクレザー(本物だったかもしれないが)の長持ちしそうな椅子とデコラ張りの背の低いテーブルが並んでいた。廊下を奥にまっすぐ進み階段を2、3段昇ると、ボックス席とカウンターのあるコーナーになっていた。
奥のカウンターとボックス席に挟まれた通路を進むと、路地側に通じるドアがあった。その古い木製のドアを押して出れば書泉グランデの裏口である。その路地には「ミロンガ」があり、さらに進むと角に焼酎の店「兵六」がある。突き当たりは三省堂書店の裏口だった。
この位置関係は今も変わらない。ただ、今の「ラドリオ」はグランデ裏の路地側からしか入れない。広い道路に面した側は「コロラド」という店になっている。つまり、ひとつの「ラドリオ」が、「コロラド」と「ラドリオ」に分かれたのである。
僕が初めて「ラドリオ」のドアを押したのは、1971年5月のことだと思う。連休明け早々だったのではないだろうか。誰に連れて行かれたのかは覚えていない。同じクラスの誰かだと思う。
当時19歳の僕からすれば、かなり年上に見える女性が注文を取りに来た。店の席数に比べてお姉さんたちが多すぎる気がしたが、夜はカフェになるのだと知った。僕は「コーヒー」を頼んだ。
出てきたコーヒーは白い泡状のものに覆われていた。俺はココアなんか頼んでいないぞ、と一瞬思ったが、ココアにしても変だった。問いかける目をしたのかもしれない。僕を連れていってくれた誰かが「ウィンナコーヒーだよ」と言った。
「ウィンナコーヒー?」と僕は戸惑った。ウィンナーソーセージが浮かんだコーヒーが滝田ゆうの漫画の吹き出しのように頭の上に浮かんだ。やはり、戸惑いが露骨に現れたのだろう、相手は「ウィーンではコーヒーにクリームを入れて飲むんだ」と教えてくれた。僕は、ウィンナコーヒーを知らなかった。
2時間で追い出される「サボール」と違って「ラドリオ」は、ウィンナコーヒー一杯で何時間でもねばらせてくれた。「ラドリオ」は、僕と僕の仲間たち十数人の溜まり場になった。
そこにいけば、いつも誰かに会えたものだった。僕たちは「仏文9組ラドリオグループ」を名乗った。大学には行かず、「ラドリオ」に直行することの方が多かった。
「ラドリオ」には夜になると、立派なスーツを着込んだ中年の紳士たちがどこからともなく集まってきた。彼らは奥のカウンターやそちらのコーナーのテーブルに陣取り、ママを相手に楽しそうに笑っていた。お姉さんたちも生ビールやワインを運ぶのに忙しくなった。
暗くなった後の「ラドリオ」で酒を飲むのは気が引けた。学生の身分には不相応に思えたのだ。暗くなると、我々は「ラドリオ」の路地口から書泉グランデの裏に出て、三省堂裏の「兵六」に流れた。
「兵六」は怖い主人が店の真ん中にデーンと陣取って睨みを利かせていた。大学にはまだ荒れていた頃の余韻が残っていたが、そこでは教授とセクトの学生が肩を並べて呑んでいた。僕は初めて焼酎の味を覚えた。
仲間のひとりは、みんなが就職した後も「兵六」で数年間アルバイトをしていた。噂では親父さんに気に入られて跡を継ぐのだなどと言われていたが、その後、彼は欧文専門の写植屋になった。
遙かな……、そう、遙かな昔の話である。
●「八月の濡れた砂」はすぐ乾く
学生時代に仲間たちと同人誌を作っていた。我々の溜まり場「ラドリオ」にちなんで、誌名は「ラドリオ」と付けた。芸のない話である。一応、「ラドリオ」のママさんには了解をとった。
同人誌「ラドリオ」は、4年間に二桁の号までは出したような記憶がある。ガリ版刷りで始まったが、最後にはきちんとした簡易オフセット印刷になった。活字も立派な明朝体で組んでいた。
僕が「ラドリオ」に最初に載せた文章は「アンチ・クライマックス・ヒーロー論─原田芳雄へのオマージュ」というタイトルだったと思う(何しろ30年近く前のことなので記憶がはっきりしないのだ)。
次に書いたのが「八月の濡れた砂」についての映画論だった。他の仲間たちはアンチロマン風の小説や前衛詩や「石原吉郎論」や「ジョルジュ・バタイユ論」や唐十郎ばりの戯曲などを載せていたのだが、僕だけは怪しげなタイトルの映画について書いていたわけである。
「濡れた」と付くだけで何だか嫌らしそうな感じがする。映画の看板は、5人の男女が水着姿でキスをしながら歩いている場面であり、性的に無軌道な若者たちの生態を描くという印象だった。おまけに、ポスターのコピーは次のようになっていた。
若い素肌ににじむセックスの汗……
女をムシって熱い砂に放り出せ!
まるでキワモノ映画である。しかし、ある友人が「八月の濡れた砂はすぐ乾く」と言い、僕はなるほどと思った。「八月の濡れた砂」は、セックスそのものは重要なテーマではあるが、ほとんど直接的なセックスシーンのない乾いたクールな映画なのである。
●1970〜1971年のフェイバリット監督は藤田敏八
「八月の濡れた砂」は1971年の8月末に公開になった。併映は夏純子主演「不良少女魔子」であり、日活最後の一般映画だった。日活は経営不振から、一般映画の制作を打ち切りロマンポルノという成人映画専門の会社になることを決めていた。
「八月の濡れた砂」は公開が終わってから口コミでじわじわと人気が出た。一種のカルト・ムービーになり、名画座でも上映されるようになった。
主演は広瀬昌助と村野武範で、高校生の役を演じた。剛達人は優等生の役だった。村野武範は1、2年後に「飛び出せ青春!」(青い三角定規!)の高校教師の役で人気が出るが、この頃は無名だった。女優陣はテレサ野田、藤田みどり、隅田和世である。今や誰も知らないだろう。
監督の藤田敏八は「非行少年・陽の出の叫び」(1967)でデビューしたのだが、その時は藤田繁矢だった。その後、手術をして糸を抜いたのを機に敏八と改名。3年間のブランクの後、1970年から立て続けに名作を作った。
1970〜1971年の僕のフェイバリット監督は藤田敏八だった。東大在籍中に俳優座養成所に通った彼は、後に演技力(?)を買われて鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」で主演を張り、その後は久世光彦の向田邦子ドラマシリーズにまで出演したから顔の売れた映画監督になった。
藤田監督は1970年に「非行少年・若者の砦」を作り、「野良猫ロック・ワイルドジャンボ」「新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ」「野良猫ロック・暴走集団71」(公開は1971年早々だった)を作る。何と年間4本である。この作品群に続くのが「八月の濡れた砂」だ。
「野良猫ロック」シリーズは1年間で5本作られ、他の3本は長谷部安春が監督した。70年代前半、「野良猫ロック」シリーズ全上映というオールナイトがよくあった。ある時、僕は新宿の映画館で何度目かのオールナイト上映を見ていたのだが、途中から入ってきてスクリーン脇に立つ人物に気付いた。酔っ払った藤田監督だった。
その藤田敏八監督も1997年8月29日に亡くなった。まだ65歳だった。「八月の濡れた砂」で人気監督になった後、秋吉久美子主演「赤ちょうちん」「妹」、山口百恵主演「天使を誘惑」「ホワイトラブ」、浅野温子主演「スローなブギにしてくれ」と話題作も多く手がけたが、晩年は監督作より出演作の方が多くなった。それは彼にとっては、心ならずものことだったに違いない。
●破壊で始まり破滅で終わる映画
「八月の濡れた砂」は不良少年の健一郎(村野武範)が退学になった学校のグラウンドに現れるところから始まる。真面目な清(広瀬昌助)と会い「いいのかよ、俺といるとこ見られて」と言う健一郎に「もう見られてるよ」と清が答える。ふたりの教師が嫌悪と不安の表情でふたりを見ている。
その瞬間、健一郎はサッカーボールを思いっきりキックする。画面は切り替わり、校舎の中から飛んでくるサッカーボールが捉えられる。窓ガラスを破壊するサッカーボール。そこでストップモーションになり、メインタイトルが真っ赤な字で描かれる。
タイトルが終わり、夏の早朝の海岸で清は不良学生たちに輪姦された早苗(テレサ野田)に出会う。清は早苗に惹かれるが、健一郎のように女に大胆になることができない。健一郎は浜で出会った女をシャワー室に連れ込んで犯すようなワルである。
また、優等生のカップルがいる。健一郎は彼をけしかけ彼女を犯させ、それを覗きながら中継をする。翌日、クリスチャンの少女は自殺し、健一郎と清は「死んでみますか」と言いながら断崖から身を躍らせる。
しかし、次のシーンは海を泳ぐふたりだ。「なかなか死ねませんねえ」というセリフがふざけている。彼らは充実感のない日々にシラケ、「ごっこ」のように毎日を生きている。
大人たちは彼らの敵だ。健一郎は偽善的な大人たちすべてに憎悪を抱いている。それは教師(地井武男)たちであり、今は母と関係を持つ父の友人だった亀井(渡辺文夫)であり、早苗の姉(藤田みどり)である。
健一郎は亀井と母をヨット旅行に誘い、出航直前、亀井と母に猟銃を突きつけて降ろす。代わりに清と早苗と姉を乗せる。「後悔するぞ」と言う亀井に「後悔したいんだよ。できるんなら」と健一郎は言い放つ。清もまた、船室に籠もる早苗の姉に「遊びだよ、単なる。何も起こりはしない」と言う。
藤田敏八の映画は、若者たちの遊技性が魅力的だった。「遊び」であり「ごっこ」である。こんな世の中、まともに生きちゃいけないよ、という感じで若者たちは遊びふざける。
だが、世の中は遊びで生きてはいけない。そのことを彼らは思い知らされる。偽善的な大人の象徴である早苗の姉をデッキで犯した清と健一郎は、その行為の虚しさに目標を見失い呆然とする。
猟銃を持ち出した早苗も、結局、真っ赤なペンキで塗られた船室の壁を打ち抜くことしかできない。船室に流れ込む海水。そこへ印象的なイントロから、石川セリの歌が「私の海を真っ赤に染めて〜」と流れてくる。
彼らを乗せ大海原を漂うヨットを、大俯瞰のヘリコプターショットで捉えたラストシーンは伝説になった。あのヨットは人生という大海の中で何の目標もなくシラケ、ふらふらと漂う若者たちを象徴するようだった。
●不良少年たちは歳をとり不良中年になる
「ごっこ」で生きていた若者たちは、やがて歳をとり「赤い鳥逃げた?」(1973)の原田芳雄を経て「スローなブギにしてくれ」(1981)の山崎努になった。
彼らは中年になっても何の目標も持てず、あるいは何かを達成することもできず、それでも人生の時間が過ぎていくことの焦燥感を持て余し、ふらふらと彷徨っている。不良少年は不良中年になっただけなのである。
僕は同人誌「ラドリオ」に書いた「八月の濡れた砂」論に「破滅へのキックオフ」というタイトルを付けた。サッカーボールが校舎のガラス窓を破壊するタイトルバックにかけたのと、破壊から始まった映画は、若者たち自身を破壊し破滅に向かうのだと分析したからだ。
我ながらうまいタイトルをつけたものだと、ひとり悦に入っていたのだが、カミングアウトすると、敬愛する詩人・長田弘の戯曲「魂へキックオフ」からインスパイアされたのである。
遙か昔の話だ。
卒業してからも「ラドリオ」には時々顔を出していた。しかし、次第に足が遠のいた。僕の会社から歩いて行ける距離なのに、生活の中心が仕事と会社になり、学生時代の仲間たちともいつの間にか会わなくなってしまった。
一生のつきあいになると思っていた仲間たちも、いつの間にか自分の周囲から消えていく。人生は、そういうものなのかもしれない。
卒業して15年ほどたったある日、僕は仕事が終わってから「ラドリオ」に行ってみたことがある。もう「コロラド」と「ラドリオ」に分かれていたから、昔のように広い通りから入ることは出来なかった。
僕は、ひとりで路地口から入り、昔通りの椅子に座って生ビールを頼んだ。僕もいつの間にか、そういうことが相応しい年齢になっていたのだ。昔通りの椅子に腰を下ろし昔通りのテーブルに向かい、昔通りの煉瓦の壁を見ていた。
いつの間にか、あの頃の仲間たちが周りにいた。障害児を抱えて生きるKも、故郷に帰って本屋を継いだSも、ジャズ喫茶のマスターになったMも、大学時代に二人も子供を作ったFも、役者になったAも、会社が倒産し故郷に帰ったTも……みんな若い頃のままだった。
そして、19歳の僕がドアを押して入ってきた。
「ラドリオ」には、それ以来一度も行っていない。苦しく胸に迫ってくるほど思い出が甦っても、郷愁は現在の自分を肯定してはくれない。19歳の僕は、中途半端で予定調和な不良中年を許しはしないだろう。偽善的な大人にだけはなるまいと、19歳の僕は思っていた。
「遊び」の日々、「ごっこ」が許された日々……、あの頃の仲間も時間も「30以上を信じるな!」と言っていた僕自身も、もう二度と戻ってはこない。
■2000年9月16日号
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、すでに二十数年勤める。現在は隔月刊のアマチュア向けカメラ誌編集長。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】 No.0693 2000/09/16.Sat.発行より転載
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