03/10/03掲載
十河 進
モナリザに恋した男
●「情事の終わり」か「ことの終わり」か
この世の中では「叶わぬ恋」の方が絶対的に多数を占める(と思う)。恋愛の自由だとか、不倫ブーム(なんでそんなものがブームになるんだ?)だとか、男女関係は自由になっているようだが、それでも忍ぶ恋や耐える恋の方が圧倒的に多いのではないだろうか。
いくら男女関係が自由になり、世の中がスキャンダルに寛容になったとはいえ、やはり恋には何らかの障害のある場合が多いと思う。それに、人は生きている間にどれほど恋をするかは知らないが、その恋のすべてが相手に受け入れられるとは思えないし、多くの人は結婚をし家庭を持つことで恋をする自由を失っていく。
だが、人間の関心の多くは男女関係にあるらしい。古今の名作と呼ばれる小説のテーマあるいはモチーフは、ほとんどが男女の恋愛を取り上げている。人は生涯を恋愛感情だけに執着して生きていけるのだと、僕はエミリ・ブロンテの「嵐が丘」を少年と呼ばれる年頃に読んで悟った。キャサリンに固執するヒースクリフはパラノイア的性格で、今なら確実にストーカー扱いされる。
しかし、さすがに世界の名作は凄いと思う。人を感動させる何かがある。トルストイの「アンナ・カレーニナ」は不倫小説だが、やはり感動した。グレアム・グリーンの「情事の終わり」も不倫の関係を扱っているのだが、読了した時に魂が浄化された記憶がある。その余韻にしばらく浸っていた。
それから20年以上が過ぎ、今では素晴らしい名作だった、感動したという記憶はあるのだが、結末はすっかり忘れている。もちろん、ストーリーの展開はある程度、記憶にあるのだが、最後に目の前から霧が晴れるように何かが見えたと思ったのはなぜだったのか、忘れてしまった。その感覚だけが残っている。
グレアム・グリーンはストーリー・テリングの名手である。自らの小説をノヴェルとエンターテインメントに分けているが、読者からすればそんな区別はあまり関係ない。「情事の終わり」「ヒューマン・ファクター」も「第三の男」「ハバナの男」も僕は同じ気持ちで読んだ。
「情事の終わり」が映画化されて、「ことの終わり」(1999)というタイトルで公開されている。原題は「The End of the
Affair」だから「ことの終わり」でもいいのだけど、やはり永年なじんだ「情事の終わり」にしてほしかった。物語は、なぜ情事が突然に終わったのかを主人公が探ることから始まる。
監督はニール・ジョーダン。イギリス人だ。「狼の血族」(1982)で注目され、最近は「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」(1994)などでハリウッド的大作も手がけている。
しかし、ニール・ジョーダンがグリーンの「情事の終わり」を映画化しようと思った理由は、何となくわかる。「不可能な愛」(叶わぬ恋)のようなものを、テーマとして突き詰めているところがジョーダンにはある。主人公たちがヴァンパイアだったりするのも、「不可能な愛」を考察するための障害の設定だと僕は分析している。
愛を貫くためには、様々な障害がある。「情事の終わり」は愛し合っていたはずの人妻が突然主人公と別れてしまう不可解な謎を、主人公の作家が探る物語の構造に神と信仰の問題がからんでくる。カトリック作家グリーンの不滅のテーマだ。
僕は、先行するジョーダンの2作品「モナリザ」「クライング・ゲーム」に同じようなテーマを感じている。心では愛し合っているのに身体は愛し合えない、という「不可能な愛」をジョーダンはグロテスクとさえ思える状況設定の中に描き出す。
●人生に失敗した中年男の叶わぬ恋
「モナリザ」(MONA LISA/1986・英・104分)は、ナット・キング・コールの名曲「モナリザ」からインスパイアされたストーリーなのだろう。「恋しても叶わぬ相手に恋してしまった、しがない中年男の辛さ」が全編に漲る。
主演のボブ・ホスキンスは、この映画でカンヌ映画祭主演男優賞やゴールデン・グローブ賞などを獲得し、ハリウッドに進出してアニメ・キャラクターと競演した「ロジャー・ラビット」(1988)で名を知られるようになった。実写版「スーパーマリオ」(1993)で、マリオを演じて「そっくり」と言わしめた俳優である。
ジョージは出所したばかりの、頭も薄くなった中年のチンピラやくざである。彼はボスの身代わりに服役したのだが、出てきてもお荷物扱いされるだけで、何も報いてもらえない。そんな中、別れた女房の家に押し掛けて問題を起こしたり、苛立ちを隠せない。
ボスは彼に、黒人の高級娼婦シモーヌのドライバーの仕事を与える。シモーヌは完璧なスタイルの長身の女だ。小太りでちびのジョージは、会話する時さえ見上げなければならない。
高級ホテルへ出入りするシモーヌは、がさつで下品なジョージに高級なスーツを買い与え、食事のマナーも教えたりする。最初、ふたりは反発し合うが、様々なエピソードを経て心を通わせる。
しかし、シモーヌには、ひとつの秘密があった。彼女を乗せてジョージは街娼がたむろする街角を毎夜のようにゆっくりと通り抜ける。シモーヌは娼婦の中の誰かを探しているのだ。
高級娼婦として成功(?)する前、彼女は街娼として街角に立ち客を引いていたのだが、その時に妹のように可愛がっていた少女がいた。シモーヌは彼女を愛していたのである。シモーヌが本当に愛している相手は女性であり、レスビアンだったのだ。
いつしかシモーヌにかなわぬ恋心を抱いてしまったジョージは、己の気持ちを持て余すことになる。いくら恋しても相手は男を受け入れられない女なのだ。シモーヌもジョージを信頼し少女探しを依頼するが、彼女はジョージを愛してはいない。人生に失敗した中年男の「叶わぬ恋」が哀しい映画だった。
●心は身体を超越できるか
ニール・ジョーダンは「クライング・ゲーム」(THE CRYING GAME/1992・英・113分)で再び、絶対的な障害を設定し「不可能な愛」をテーマにする。この映画はアカデミーオリジナル脚本賞を受賞した。
IRA(アイルランド・リパブリック・アーミー)が、ひとりの黒人兵士を誘拐するところから映画は始まる。彼を人質にして、イギリス政府へ要求をするつもりなのだ。
IRAの兵士ファーガスは、人質に取った黒人兵士を見張るうちに奇妙な友情で結ばれる。黒人兵士は様々なことを話すが、その中の恋人の話がファーガスの心に残る。
ある日、アジトが政府軍に襲撃され、仲間も人質の兵士も死んでしまう。ファーガスは生き延び、彼は黒人兵士の形見を恋人に手渡すためにロンドンへ渡る。ファーガスは正体を隠してその女性に近づくが、やがて彼女に心を奪われていく……。
彼の恋心に気付いた彼女の方は最初は受け入れないのだが、ある日、とうとう彼に身体を許そうと、衣服を取る。その瞬間……。
実は、この映画の意表を突く展開は、ここから始まる。もし、この映画の意外性だけを見たいのであるなら、未見の人はここから先を読まないでほしい。僕も、できればこの映画の肝を明らかにせずに書き続けられればいいのだが、この文章の趣旨からは、このことを明らかにせずには進めないのだ。
日本の場合、規制が緩和されつつあるとはいえ、まだまだ映倫では男性器の露出は許していない。だから、この女性だとばかり思っていた美しい黒人が衣服を脱いだ時に、その部分にボカシが入ってしまい、日本の観客は最初、ひどく戸惑ったことだろう。
僕も、一瞬、何かと思ったが、ファーガスが股間にボカシが入った彼女の裸身を見た瞬間に、洗面所に駆け込み吐いてしまうのを見て、納得した。彼女は男だったのだ。
ファーガスの葛藤はここから始まる。彼の心は彼女を愛してしまっている。しかし、彼は女として愛したのであって、肉体的に結ばれる瞬間に相手が男だとわかったショックは大きい。彼の肉体は男としての相手を拒否している。
心から愛した女が実は男だった時、彼は彼女(彼?)を愛し続けられるだろうか、というテーマがここから深められていく。
女しか愛せない女に恋した中年男、女だと思って愛したのに相手は男だったという設定、あるいは狼の血族、ヴァンパイアなど、「愛してさえいれば、すべては超越できる」という幻想に対して、とんでもないハードルを用意するニール・ジョーダンという監督は、かなりへそ曲がりである。
●身も心も一緒になることが恋愛の正しい姿か
吉野弘に「身も心も」という感動的な詩がある。僕の友人夫妻は、友だちの結婚式でその詩を朗読したというくらいだから、愛の素晴らしさを謳いあげた詩だ。もっとも、今ではダウンタウン・ブギウギ・バンドの「身も心も」の方が有名かもしれない。
基本的には「愛し合う者たちは身も心も」一緒になることが「恋愛の正しい姿」だとされている。そのことは文部省も奨励している(と思う)。なぜなら、そんな純愛の名作ばかりを課題図書で読まされた記憶がある。
しかし、世の中には「叶わぬ恋」が満ち溢れている。ただじっと見つめているだけの片想いの恋は数知れず、自制する恋も多いだろう。僕のように23歳から結婚していると、ほとんど自制ばかりしてきた感じである。もちろん、恋はする。しかし、それは相手に告げることはないし、一方的に胸にしまっておくだけの恋だ。
そんなものは本当の恋ではない、というかもしれない。恋の情熱は、そんな風に自分ひとりの胸の内にしまっておけるものではない、と。
確かにそうかもしれない。結婚し家庭を持っている身でありながら、今まで僕が一度も他の女性に「あなたが好きだ」と言わなかったかというと、嘘になる。だが、「あなたが好きだ」と言ったところでどうなる、という声がいつも聞こえているのは確かだ。
正直なところ、僕は別に「身も心も」欲しいとは思わない。ニール・ジョーダンの設定に自らを置いてみた場合、僕は相手が男だったことに衝撃は受けるだろうが、だからといって身体と心が葛藤することはないと思う。相手と寝なければいいだけだ。
僕は女性とあまり縁のない人生を送ってきたが、女性の姿をした人から「今晩、泊めてあげる」と言われたことが一度だけある。もう明け方の4時近くで、相手はうっすらと髭が生えていた。新宿ゴールデン街のカウンターの向こうにいるママさんだった。その時は好意だけいただくことにした。
「心だけ愛して」と、昔、山崎ハコは歌った。神代辰巳監督「地獄」(1979・131分)のテーマ曲だった。この映画では、近親相姦が扱われるから「身も心も」というわけにはいかない。心は愛し合っているのに、身体が結ばれることが罪の意識を生むから「心だけ愛して」となるのである。
近親相姦であるとか相手が同性であるとか、ドラマとして盛り上げるためにはいろいろ衝撃的な設定が必要なのだが、普通の人の普通の人生では単に妻子持ちというだけで、充分に大きなハードルになる。「心だけ愛して」とさえ彼らは言えない。
恋する人間は、相手にも自分を恋することを望むだろう。だが、多くの「叶わぬ恋」たちはそんなことを望まず、叶わぬことを確認する前に自己規制する恋である。つまり、相手に告白する前に諦め、耐え忍ぶ。
忍ぶれど 色に出にけり わが恋は……
十代半ばに教科書で覚えたこの上の句が、未だに記憶に焼き付いているのは、たぶん僕が昔から「忍ぶ恋」が好きなたちだったからだろう。あれから30年、ずっと「忍ぶ恋」ばかりだった。
■2000年10月21日号
十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.0721 2000/10/21.Sat.発行より転載
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