118いい輪
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03/10/17掲載

十河 進

■悪に徹した人間の魅力

●「ガラスの仮面」は名作である

「ガラスの仮面」という長大な少女漫画がある。1970年代前半から連載が始まり、一体いつ終わるのかと言われている漫画だ。作者の美内すずえによれば「最後のコマはビジュアルとして完成している」ということだが、僕はどうやって終わらせるのか本当に楽しみにしている。

「ガラスの仮面」は天才的な演劇少女・北島マヤと演劇エリートながら努力の人である姫川亜弓のライバル物語が一本の柱になっているのだが、そのふたりが競演する「ふたりの王女」という劇中劇がある。

あるヨーロッパの国を舞台にした中世の物語で、暗い牢の中で世を憎んで育った姉の王女と天真爛漫に恵まれて育った妹の王女が登場する。姫川亜弓が演じる姉の王女は陰謀に陥れられた母の死の後に10年以上牢獄に閉じこめられ、世を呪い人を恨んで育つ。

北島マヤが演じる腹違いの妹の王女は、父にも愛され周囲の誰からも好かれ幸せに育ち、誠実で人を疑うことを知らない、すべての人を愛している人間である。妹と姉は善と悪の象徴のようでもある。

やがて姉の王女は裏切りと謀略の世界に身を投じ、自ら悪の権化となり権謀術数を駆使して権力の座をつかんでいく。その言葉は嘘で飾られ、懐には常に相手を刺す刃を隠している。慕ってきた者を売り渡し、相手の信頼につけ込んで寝首を掻く。

誠実で天使のような妹の王女も姉の罠に陥ち、その地位を捨てて国外へ逃げなければならなくなる。今は女王となった姉は誰も信じられない孤独の闇の中で、「地獄の中で生きてみせる……血にまみれても生き抜いてみせる」とつぶやくのである。

この「ふたりの王女」の役作りから本番にかけての数冊を読むだけでも「ガラスの仮面」は名作だと改めて思う。特に「ふたりの王女」のストーリーには感心する。人間に対する洞察が深いのだ。古典悲劇として充分に劇場にかけられるクオリティがある。

姫川亜弓演じるところの王女オリゲルドの造形が特に素晴らしい。悪の権化になりながら、なりきれない弱さを感じさせ、それでも実の父や夫を殺し、権力を守り続けて生きていく覚悟がいい。実に魅力あふれる人間像である。

●アル・パチーノ初監督作品の志

「ゴッドファーザー」シリーズでマイケル・コルレオーネとして権力者の孤独を演じたアル・パチーノは名優と言われながら、なかなかアカデミー主演男優賞を獲れなかったが、「セント・オブ・ウーマン──夢の香り」(1992)でようやく獲得し、それがきっかけになったのか、初めての監督作品である「リチャードを探して」(1996)を作った。

リチャードとはリチャード三世のことで、シェークスピアの「リチャード三世」を演じることになったアル・パチーノが役作りのための調査や演出家たちとディスカッションをするシーンなどと実際の「リチャード三世」のシーンが劇中劇として交錯する映画である。

マフィアのボスとして君臨するために、裏切った実の兄さえ殺したマイケル・コルレオーネを演じたパチーノは、初めての監督作に「リチャード三世」を選んだ。それも、リチャードの内面を探りつつ役作りをするという映画である。ここには、マイケル・コルレオーネを演じた自分を改めて捉え直そうという志向があったのではないだろうか。

王位を望んだ男、リチャード三世。そのためには実の兄さえ謀略で陥れ獄死させる。最後には戦いの最中に「馬をくれ、馬を! 我が王国をくれてやる」と、あれほど望んだ王国を馬一頭と取り替えようとしながら死んでいく。

それは、まるで「ゴッドファーザーPART3」(1990)のラストで、死んでいく最愛の娘を抱きかかえ号泣したマイケル・コルレオーネである。あの時、マイケルは娘の命が甦るのなら、永年かけて血塗られた手で築いたコルレオーネ・ファミリーのすべてを差し出しただろう。

そう考えると、アル・パチーノが「リチャードを探して」という映画を監督した理由が想像できる。

この映画を見るまで僕はシェークスピアの「リチャード三世」は読んだことがなかったし、舞台を見たこともなかった。僕は、さっそく白水社版のシェークスピア全集「リチャード三世」(小田島雄志・訳)を買ってきて読んだ。

最初に気付いたのはジョン・スタインベックの「我らが不満の冬」という本のタイトルは「リチャード三世」の幕開きのセリフから引用されていたのだということだった。

幕開きのセリフは「我らが不満の冬もようやく去り、ヨーク家の太陽エドワードによって栄光の夏がきた」というものだ。時は薔薇戦争の頃である。

●殺した相手の亡霊に悩まされる情けなさ

「リチャードを探して」でアル・パチーノが演じた悪の権化「リチャード三世」は、一度も後悔せず良心の呵責も感じない。兄を陥れて殺し、幼い甥の王子たちを殺し、女を我がものにして王位につく。確信犯である。その潔さが実に魅力的だった。

権力の妄執に囚われた男の悲劇としては「マクベス」が有名で、こちらは本でも読んだし舞台も見たし、黒澤明が日本の戦国時代を背景に翻案した「蜘蛛巣城」(1957)も見たし、ロマン・ポランスキーの「マクベス」(1971)も見た。

マクベスは妻にそそのかされ王を殺すのだが、やがて亡霊に悩まされるようになる気の弱さに僕は落胆した。良心の呵責に耐えられないのなら、妻の挑発などに乗って王や友を殺さねばよかったのだ。

情けない奴、というのがマクベスに対する印象だ。特に黒澤版「蜘蛛巣城」の三船俊郎の亡霊におののく姿は、情けないというより滑稽だった。黒澤明流の大げさな演出の失敗だと思う。見ていて馬鹿馬鹿しくなる。

しかし、なぜ、僕はそのように感じるだろうか。それは僕が信念を持ち、覚悟を決めた人間に魅力を感じるからだと思う。悪を自覚し、悪に徹した人間は魅力的なのだ。つまり覚悟を決めた人間は、どんな場合でも魅力的なのである。

己の罪が露見した時に卑怯未練な言い訳をしたり、良心に目覚めて呵責を感じたり、己の後ろめたさの具現のような亡霊におののいたりするくらいなら初めからやめておけ、そういうのはとてもみっともないし、情けない、と思うのだ。

王女オリゲルドのように「地獄の中で生きてみせる……血にまみれても生き抜いてみせる」と、権力者の孤独と地獄を自覚しながら、それを自ら望んだ結果として、さらに怨霊や亡霊が出ても自らの悪行の結果として受け入れる姿勢は潔いと僕は思う。

どんなことになっても自らの行為の結果であるなら引き受ける、そんな覚悟もなく実の父や夫は殺せない。悪行の報い、を受け入れる覚悟のないまま、悪行を積んではいけない。卑怯未練な振る舞いをするくらいなら、権力など望むべきではないのだ。

その点、リチャード三世は悪を自覚した確信犯だ。劇が始まって、いきなり観客はリチャードの独白を聞かされる。「おれは悪党となって、この世の中のむなしい楽しみを憎んでやる」と、彼は自ら醜い身体と醜い心を観客にさらして、悪党となることを宣言する。

●リチャード三世は本当に悪の権化なのか

リチャード三世はシェークスピアの戯曲によって悪の権化のようなイメージが浸透してしまったようだ。実際のイギリス史においても、幼い甥の王子ふたりをロンドン塔で殺したとして歴史上の悪役を引き受けてきたらしい。

ジョセフィン・ティが書いたミステリの古典「時の娘」では、リチャード三世は本当に王位継承者である甥たちを殺したのか、怪我をして病院のベッドから出られないスコットランド・ヤードの警部がその謎を推理していく。

今では品切れになっているかもしれないが、ハヤカワ・ミステリ文庫の「時の娘」の表紙はリチャード三世の肖像画が使われている。主人公の警部が「本当にこれが悪の権化と言われた王か」と疑問を抱くきっかけになる肖像画である。

確かに、その肖像画では思索的で深い内面をうかがわせる表情をした端正な顔のリチャードが描かれている。主人公の警部は「これは殺人者の顔ではない」と確信し、そこから過去の文献を探り始める。

「時の娘」は安楽椅子探偵のパターンを使用し、歴史上の事件を文献だけで推理していくという新しいミステリ・モデルを創り出した。現実には何の犯罪も起こらない、実に健全な気持ちのよいミステリである。

イギリス史には全く詳しくないし、リチャード三世の頃の長年にわたる薔薇戦争も複雑に入り込みすぎていてよくわからないのだが、「時の娘」を読めば作者の推理には納得させられる。それが、どこまで学問的な裏付けがあるのはわからないが、トマス・モアの文献なども実証的に否定されている。

ちなみに小説の巻頭には「真理は時の娘──古いことわざ」という言葉が掲げられているが、「真理は時が生み出すもの」という意味なのだろう。

■2000年11月4日号

十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。

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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】 No.0732  2000/11/04.Sat.発行より転載
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