03/11/14掲載
十河 進
誰かが見ている
●ガーシュインの「SOMEONE TO WATCH OVER ME」
アイラ&ジョージ・ガーシュインが創った数々の名曲の中で僕がとりわけ好きなのが「SOMEONE TO WATCH OVER ME」だ。ガーシュインの曲では、オペラ「ポーギーとベス」の中の子守歌「SUMMERTIME」が日本では一番有名だと思うが、「やさしき伴侶を」と日本題が付けられているこの曲が僕のお気に入りだ。
しかし、タイトルは「誰かが見ている」あるいはロマンチックに「誰かが見つめている」と訳したいところである。でも、「OVER ME」のニュアンスが英語に弱い僕にはよくわからない。「やさしき伴侶を」というタイトルは、詞の内容から翻案したのだろうか。
僕は岩崎宏美が好きでLPを何枚か持っている。彼女がスタンダードナンバーばかりを英語で歌った「ディズニー・ガール」というアルバムがあり、そのライナーノーツには有馬三恵子の日本語の詞が掲載されていて、タイトルは「その人は誰」と訳されている。もっともこれは原語の詞とはまったく関係なくつけた詞である。
やはり「誰かが私を見つめている」と訳すべきだろう。女性の心理を織り込んだ恋の歌である。誰かに見つめられている、そう考えるだけでロマンチックな気分になれるのかもしれない。そう言えばディーン・マーチンも「Everybody
Love Somebody Sometime」と歌っていたっけ。あちらは「いつでも誰かが誰かを愛している」という意味だが……。
もっとも、最近は「誰かに見られてる」としても、それは恋心からではなく異常犯罪者であることが多いのかもしれない。ストーカーという言葉も一般的になってしまった。タルコフスキー監督の「ストーカー」(1979・163分)も内容を誤解されてしまいそうである。
●リドリー・スコットの「SOMEONE TO WATCH OVER ME」
リドリー・スコットはCMディレクターとして活躍し、監督デビュー作の「デュエリスト−決闘者−」(THE DUELLISTS/1977・101分)では、映像派であることを強く印象付けた。
続く「エイリアン」(ALIEN/1979・117分)は大ヒットし、「ブレードランナー」(BLADE RUNNER/1982・116分)は伝説のカルトムービーになった。松田優作の遺作になった「ブラック・レイン」(BLACK
RAIN/1989・125分)や女ふたりの解放の旅を描いた「テルマ&ルイーズ」(THELMA & LOUISE/1991・128分)も僕は大好きな映画である。
そのリドリー・スコット監督の作品の中では失敗作にあげられる(要するにあまりヒットしなかった)のが、「誰かに見られてる」(SOMEONE
TO WATCH OVER ME/1987・102分)である。しかし、僕は好きな映画だし、悪くないと思っている。大都会を舞台にしたミステリーで、都会の夜がとても魅力的に捉えられている。おまけにガーシュインの曲も効果的に使われているのだ。
リドリー・スコットの画面は暗いのが特徴だが、この映画もほとんど夜のシーンだったという印象がある。昼間のシーンも晴天ではなく、どんよりと曇っていたと思う。映画のトーンを統一する狙いが監督にはあったのだろう。オープニングのニューヨークの夜景は映像派監督の面目躍如、「素晴らしい」という他ない。
ニューヨークのセレブレティばかりが集まる華やかなパーティに富豪の娘クレア(ミミ・ロジャース)が出席している。だが、そこで殺人が起こり、彼女は犯人を目撃する。犯人も彼女に見られたことを知り彼女を殺そうとするが、その場は難を逃れる。
ニューヨーク市警は目撃者であるクレアを護衛するためにチームを組み、刑事を張り付ける。刑事は彼女の豪華なアパートメントのドアの前で寝ずの番をし、外出時にはすべて付き添う。その護衛のひとりにマイク(トム・ベレンジャー)が任命される。
マイクは仲間に愛される性格の良さを持ち、ブルックリンの安アパートで美しい妻とかわいい娘と3人で平凡な暮らしを送る貧乏刑事である。最初、彼は自分の生活とはまったく違う富豪の娘の生活にとまどいと反感を覚える。貧富の差をいやでも感じさせられるのだ。
だが、ある夜、アパートメントの廊下で椅子に座って護衛をしているマイクをクレアは室内に招く。広大なワンフロアーの高級アパートの室内と豪華なインテリアなど、目を眩ませるほど彼にとっては縁のない世界だった。だが、彼はクレアと話しているうちに恋に落ち(もちろんそれまでに様々なエピソードで二人の心が近づいたことが描かれている)ベッドを共にする。
この映画はラブ・サスペンスとジャンル分けされるが、犯人に狙われる女性という設定でサスペンスを描きながら、もう一方で愛する家族がいながら別の女性を愛してしまった男の苦悩を描くテーマも深めているので、中には中途半端だと感じる観客がいるかもしれない。
この映画の主人公は、中年の貧乏刑事マイクである。彼の苦悩と闘いを描いているのだ。目撃者を護り犯人を逮捕するという仕事、だがその目撃者と恋に落ち護衛中にセックスする歓喜と後ろめたさ、そして何より愛する妻と娘に背いている罪悪感、そんなものすべてを同時に背負ってしまった男、なのである。僕などとても精神的に保たない状況だ。
●いつでも誰かは誰かを愛し見つめている
目撃者と恋に落ち妻を裏切っていたことは、やがて妻の知るところとなる。妻は絶望し、家庭は一瞬にして地獄と化す。妻を不幸に突き落とし、家庭を地獄にしたのは己だとマイクは自分を責めるが、そんな彼の苦悩などおかまいなく犯人は彼の家族まで襲うのだ。
家族が襲われたのは、自分がクレアと肉体的な関係まで持つ間柄になったからだと、そのことを犯人に知られたからだと、彼には自らを責めるファクターがまた増えてしまうのである。妻と娘が殺されていたら……、そう考えると彼は自分を許すことができない。同僚の刑事たちも彼に冷たい態度をとる。
マイクは誠実な人間として描かれている。家族との幸せなシーンが最初の方で描かれているが故に、クレアに部屋に招かれベッドへいくことになるシーンの間、僕は「やめておけ、深みに入るだけだ」と心中、マイクに忠告し続けていた。もちろん、ふたりがベッドに入るのはストーリーの展開上、必然であることはわかっていたのだけれど……。
この映画を見ていて「SOMEONE TO WATCH OVER ME」のSOMEONEとは、誰なのだろうと思いを馳せた。SOMEONEのひとつは主人公たちを狙う犯人を指している。そんなことは誰でもわかる。だが、それは恋の歌である「SOMEONE
TO WATCH OVER ME」を「誰か(殺人犯)が見つめている」というサスペンスにひっかけた洒落っけしかない。
この歌が持つ本来の意味、つまり恋する人間の普遍的な気持ちを表現した部分をこの映画は描いてもいる。SOMEONEとは、恋する人々(愛する人間がいる人々)である。妻はマイクを見つめ、マイクはクレアを見つめ、見つめられる対象としてだけのように描かれる金持ちで華やかで護られるべき存在のクレアもまた、マイクを見つめているのである。
いつでも誰かは誰かを愛し、見つめているのだとこの映画はメッセージしているような気がする。そして、SOMEONEの中にはもうひとつの要素も含まれている、と僕は確信する。その「誰か」は本当のSOMEONEなのである。
マイクにとってSOMEONEとは「自分の心」なのかもしれない。家族を裏切る時、彼の行為を「誰かが見ている」のだ。恋人と愛を語り合う時に、その彼の心の中を「誰かが見ている」のである。キリスト教圏の西洋人なら「SOMEONE」とは「神」だと答えるだろう。
●古来から日本に伝わるSOMEONEの正体
神が存在する人々にとっては「神」なのかもしれないが、日本には古来から様々な言い方で「SOMEONE」の正体は明らかになっている。
「天知る、地知る、我知る」という言葉が好きだと、今年入社した新人が自己紹介の時に言っていたが、それを聞いて僕は若い人がずいぶん古風なことを言うものだと感心した。
この言葉の場合は「誰も見ていないと思っても、天も地も見ている。最終的には自分だけは自分がやったことを知っているのだから……」ということだ。わかりやすく具体化すれば、この場合の「SOMEONE(誰か)」は最終的には「己の良心」である。
僕が好きなのは別の言葉だ。それは、フーテンの寅さんや座頭の市やんが経験的に学んだモラルである。フーテンの寅さんは「お天道様は、お見通しよ」と弟分に説教し、座頭の市やんは「お天道様には顔向けできねぇなあ」とつぶやきながら孤独に裏街道を歩くのである。
この「お天道様」は、僕にとってもひとつの基準になっている。お天道様に顔向けできないことをやってはいけないし、お天道様の下を大手を振って歩きたいということが、僕のモラルの原点を作っている。
もちろん男女のことはモラルの埒外にあることは承知している。僕だってマイクをモラルという基準で裁こうなどとは思わない。いや、それどころか、僕はひどくマイクに共感した。
自分が妻や娘に対して行った背信を彼は自覚し、己を責める。責めるくらいなら裏切らなければいいなどという問題ではない。彼はクレアに恋したのである。これはもう致し方のないことなのだ。
恋をするということは、自分の周囲からすべての価値基準や規範やモラルや、その他すべてが消滅し、愛する相手しか見えなくなることである。すべての価値は「会いたい」「一緒にいたい」「肌を寄せ合っていたい」ということだけに収斂し、そのためならどんな犠牲も払う気持ちになるだろう。
だが、それでも僕はモラルにこだわる。マイクは妻を裏切り続けることに耐えられず真実を告白し、妻を地獄に陥れる。「いい気なものだ。告白すればあんたの苦悩は軽くなるかもしれないが、奥さんは不幸の底に突き落とされるんだぞ」とマイクを責めるのはたやすいが、マイクの誠実さも認めるべきだろうと僕は思う。
人間は裏切る存在である。「私は一度も人を裏切ったことはない」と断言する人もいるだろうが、それは自覚しているかいないかの差だけだ。自覚のないまま裏切る方が罪深いかもしれない。自分は裏切っていると自覚しつつ裏切ることは、偽善と非難されるかもしれないが本当に辛い。
以前、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の言葉「人生は三つの要素で出来ていて、その三つとは愛と友情と裏切りだ」を紹介したことがあるが、人間は裏切ることもある存在なのだと自覚しつつ、「誰かが見ている」ことを常に忘れない生き方をするしかないのだろうか。
──お天道様はお見通し
そう思う時に思い浮かべるのはスパイク・リー監督の「ドゥ・ザ・ライト・シング」(DO THE RIGHT THING/1989・120分)というタイトルだ。「まともにやれよ」というニュアンスらしいのだが、直訳すると「正しいことをせよ」あるいは「正しきことを成せ」である。
日本語なら「まともにやれ」「ちゃんとやれ」くらいの言葉を「DO THE RIGHT THING」と言うところにキリスト教圏の歴史を感じるが(見当外れかもしれないけど)、僕は「DO
THE RIGHT THING! DO THE RIGHT THING!」とつぶやきながら、お天道様に恥じない日々を送りたいと「見ている誰か」を感じつつ、反省ばかり繰り返す日々を送っているのです。
■2000年12月9日号
十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】 No.0761 2000/12/09.Sat.発行より転載
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