118いい輪
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03/12/12掲載

十河 進

オール・アローン

●一人では生きていけない人間?

先日、マル・ウォルドロンのジャズアルバム「オール・アローン」(1966)を買った。名曲「レフト・アローン」(1960)と併せて聴いてみようと思ったのだ。「レフト・アローン」はビリー・ホリディに捧げられた曲だが、聴くたびに僕は夜霧の中に消えていく孤独な男の後ろ姿を思い浮かべる。

「レフト・アローン」の詞はビリーが自ら書いたが、その歌詞の一部から「オール・アローン」と名付けられた曲ができた。マルがマルセル・カルネ監督の「マンハッタンの哀愁」(1966)のために作った映画音楽である。

「マンハッタンの哀愁」は、もう若いとは言えない大人の恋愛が描かれていたが、そのテーマ曲が「オール・アローン」と名付けられたのは暗示的だった。「すべての人は孤独」あるいは「みんな、ひとり」というコンセプトの曲が流れる恋愛映画が、明るいものになるはずがない。

ところで、今回、僕は柄にもなく「孤独」を語ろうと思う。なぜ、そう思ったかというと、読者の方からリクエストをもらったからである。

僕は淋しがり屋で、一人では生きていけない人間だと昔から思っている。大学時代は一人暮らしをしていたし、ほとんど人と会話をしない生活を数ヶ月続けたこともある。しかし、人恋しくなると我慢ができないたちで、よく友人のアパートを夜中に訪ねたりした。

高校3年生の夏、まったく受験勉強に身が入らない自分を追い込むために、ガールフレンドが紹介してくれた山奥の温泉宿の屋根裏部屋に、2週間ほどの予定で籠もろうとしたことがある。

僕は3日で音をあげた。人恋しくなったのである。呆れる宿の主人夫婦を尻目に、僕は市内へ向かうバスに乗り込んだ。市内で降りた僕は、すぐに宿を紹介してくれたガールフレンドを呼び出したが、彼女は僕の顔を見ると「もう帰ってきたの」と呆れ顔で眉間にしわを寄せたものだった。

断っておくけれど、僕は特に彼女と会いたかったわけではない。とにかく、誰か友だちと会いたかっただけだ。それに彼女とは、話が合う友だち以上の関係ではなかった。彼女は、倉橋由美子の「聖少女」や大江健三郎の「性的人間」を読むような女の子だった。

当時、僕にはもう少し異性を意識する関係のガールフレンドがいたが、彼女は「セブンティーン」を読むような少女だった。もちろん大江健三郎の短編の方ではない。西谷祥子のマンガ「奈々子の青春(花びら日記)」や「おれは男だ」などが連載されていた集英社発行の月刊誌の方である。

5年後、「セブンティーン」派のガールフレンドは僕のカミサンとなり、現在、僕のことを「ジャバ・ザ・ハット」とか「ドン・ガバチョ」とか言っている。そんな非道な女と早々と結婚し25年以上耐え続けているのも、僕が淋しがり屋だからだと思う。一人で暮らすことに較べたら、肥満体を罵られるくらい何でもない(もっとひどい目にもあっているけど)。

実のところ、僕は孤独(というより孤独な状態)が嫌いだ。人間は本質的には孤独で、それを引き受けて生きるべきだと思うけれど、僕はいつも誰かに傍にいてもらいたい人間である。ここまで付き合ったのだから、死ぬ時にはカミサンに看取ってもらいたいとも思っている。家族や友人のいない生活は、僕にはきっと耐えられないだろう。

●孤独な金持ちより愛し合う家族がいる貧乏人が幸せ?

孤独は不幸なことなのだろうか。昔から「孤独な金持ち」対「愛する家族と友人のいる貧乏人」という図式は、いろいろな物語で描かれてきた。代表的なのはディケンズの「クリスマス・キャロル」だろうか。

ドナルド・ダックがスクルージをやったディズニーアニメを見たことがあるが、ミュージカル「クリスマス・キャロル/SCROOGE」(1970/117分)や人形アニメ「クリスマス・キャロル/THE MUPPET CHRISTMAS CAROL」(1992/85分)などもあるし、ビル・マーレーが主演した「3人のゴースト/SCROOGED」(1988/101分)という映画もある。

「クリスマス・キャロル」も、孤独な金持ちより愛し合う家族や親身になって気遣ってくれる友人たちがいる貧乏人の方が幸せ、という結論に落ちるストーリーである。一種の教訓話であり、世の中には自分は金持ちじゃないと思っている人の方が多いから、昔から大衆の支持を得てきた考え方である。

しかし、世の中はそんなに単純ではない。この考え方には、貧乏人の負け惜しみ的な匂いがしないだろうか。長く生きていると「孤独な金持ちもいるかもしれないが、家族や友人に愛される幸福な金持ちもいる」し、「家族に愛され友人の多い貧乏人もいるかもしれないが、孤独な貧乏人の方がずっと多い」というシニカルな現実認識を持つことになる。

「孤独な金持ち」対「愛される貧乏人」という図式は、金持ちであるか貧乏であるかが本質的な問題ではなく、「孤独」と「愛」が対置されているのである。「金持ち=孤独=不幸」「貧乏=愛に充ちた生活=幸福」という絶対的公式が成立しているわけではない。

同じ金持ち同士でも「孤独な人間」と「愛に恵まれた人間」という対比が成立するわけだから、「孤独な人生」と「愛に充ちた人生」はどちらが幸福か、という問題である。貧富の差は付帯的なものに過ぎないし、貧しいよりは「金に困らない生活」の方が一般的には幸福だろう(貧乏は人を育てることもあるけれど)。

でも「孤独=不幸」「愛=幸福」というように、単純に対立する概念なのだろうか。愛があれば、本当に人間はみんな孤独ではなくなるのだろうか。以前、僕は福永武彦を紹介した文章で「愛と孤独」について引用したことがある。

……人が生きる本質的な基盤として孤独があり、愛とは運命によってその孤独が試みられることに対する人間の反抗に他ならない……

─────福永武彦のエッセイ「愛の試み」より

福永さんは難しく修辞的に書いているけれど、「人間は本質的に孤独なのだが、淋しがり屋だから愛を求め、誰かを愛することで孤独から解放されたいと願っている存在なのだ」と言っているのだと思う。

●愛を知った故に孤独を耐え難いものに感じ始める

金も権力も手に入れた人間の、底なし沼のようにデスペレートな孤独を描いた映画がある。映画で見る限り、そこに描かれた権力をつかんだ男の孤独は実に魅力的だ。その映画を僕はずいぶん若い頃に見たのだが、「人生とは、そういうものだ」という強烈な説得力を感じたものだった。

男の名はジェット・リンクという。若きジェームス・ディーンが額にそり込みを入れ、前髪が後退した感じにして老け役を演じた。残念なことに、この映画が公開された時、ジェームス・ディーンは、すでにこの世の人ではなかった。

「ジャイアンツ/GIANT」(1956/201分)で彼が演じたミステリアスな男、ジェット・リンクは、誰の協力も得られず、たったひとりで石油が出ることを夢見て自分の土地を掘り続ける。彼は孤独だが、その孤独を怖れてはいない。孤独であることを覚悟して生きている。孤独を嘆くほどヤワではない。

だが、彼に荒野をさまようはぐれ狼のような孤独を自覚させてしまったのは、彼の生活の中に一条の光が差すように登場した牧場主の若妻レズリー(エリザベス・テイラー)である。彼女は、テキサスの牧童でしかなかった彼に叶わぬ夢を与えてしまう。

ジェット・リンクは、生涯をかけて愛する女性ができた結果、それまで己自身が望んだはずの孤独を耐え難いものに感じ始める。なぜなら、彼の愛は自分だけの胸に秘めた想いであり、それを告白もできないし、もちろん報われることもないからだ。

手の届かない女性を愛してしまった男の悲劇の始まりである。彼は自分の心の中にあふれる情熱を、たったひとりで耐えねばならない。だから、自分で建てた小屋にレズリーが立ち寄ってくれた時の、喜びを表すまいとしているリンクの拗ねたような姿は痛ましい。あんな視線をされたら、男の僕だってディーンのファンになってしまう。

この映画でジェット・リンクは傍役である。物語は、東部からテキサスの大牧場に嫁いできた美しい若妻レズリーを中心に展開する。彼女は自分の考えや意志を持ち、自立する女性だ。彼女はテキサスの慣習に負けず、夫(ロック・ハドソン)の反対にもめげず、人種偏見も怖れない強さを持ち、虐げられた人々を救う強さも持っている。理想の女性である。

ジェット・リンクは、そんな彼女を密かに愛し続ける。彼が石油を探し続けたのも、金持ちになれば、いつか彼女の愛を得られるのではないかという幻想を抱いてしまったからだ。彼にとって石油を掘り当てて金持ちになるのは目的ではない。レズリーに愛されたいという叶わぬ夢のために、彼はただひたすら金を儲け、この世の王になろうとする。

やがて彼は石油王となり、多くの系列会社を立ち上げ、ジェット・リンク財団を設立する。現在で言えば、ビル・ゲイツみたいなものである。金と権力を手中にし、ついに名誉を得る時がやってくる。

彼はダラスの自分の系列のホテルで行われる名誉ある授賞式に、レズリーの一家を招待する。20数年が経っている。レズリーの子供たちは成人し、娘はジェット・リンクに魅力を感じ個人的な交際をしている。それを知ったハドソンは娘を咎める。

レズリーの長男の嫁がメキシコ人であることからホテルへの入場を断られ、ハドソンはホテルの持ち主であるジェット・リンクを殴る。リンクはその時にレズリーが深く夫を愛していることを改めて悟り、レズリーには永遠に手が届かないのだと思い知らされる。

絶望し自暴自棄になったリンクは泥酔して祝賀パーティに現れ、支離滅裂なスピーチをして顰蹙を買う。娘はリンクを慰めようとホテル内を探すが、リンクの独り言をドアの陰で聞き、彼がレズリーを片時も忘れずに愛していたことを知り、自分は母親の代用だったのだと悟り黙って立ち去る。

そのシーンのジェット・リンクの孤独な姿が、僕の目に焼き付いている。金も権力も得た。だが、彼が本当に欲しかったレズリーの愛だけは得られなかったのだ。深い絶望の果ての孤独感が、中年男を演じるジェームス・ディーンの背中ににじみ出ていた。

ジェット・リンクの悲劇に比べて、エリザベス・テイラーとロック・ハドソンが演じた大牧場主夫妻の人生は家族愛に充ちた幸福なものとして描かれる。ラストシーンは、様々なことがあった年月を共に歩んできた夫婦の愛の確認で終わる。ここでも「孤独」に勝つのは「愛」なのだ。

●愛は人間を孤独から解放するか?

しかし、へそまがりの僕は「愛は本当に孤独を救えるのか」と疑っている。救えるとしても一時的なのではないだろうか、とも思う。孤独を忘れさせてくれるほど、高揚した状態で愛を持続させることはむずかしいからだ。

次々と相手の女性を変えていく男は世の中に多いようだが、彼らは自分の孤独を一瞬でも忘れさせてくれる愛が高揚する瞬間を求めて、違う相手を探しているのかもしれない。一人の相手では愛が持続しないのなら、相手を変えればいいという方法論である(単なる女好きかもしれませんけど)。

誰かが「セックスは孤独を忘れようとする男女の行為」と書いていたが、別の誰かは「セックスほど孤独な行為はない」と書いていた。神代辰巳監督「赫い髪の女」(1979/73分)は、中上健次の原作通りセックスをし続ける男女の話だが、絶え間なく肉体を触れ合わせる行為が孤独な魂を触れ合わせようとする行為に見えてくる。

男女の恋愛がつまるところ肉体的接触を欲するものであるなら、異性を求める感情はやはり「孤独から逃れようとする、解放されようとする」本能的な心の動きなのかもしれない。

だが、恋愛の達人ともいうべき女性作家フランソワーズ・サガンは、エッセイ集のタイトルに「愛と同じくらい孤独」「愛という名の孤独」と付けた。自らも恋愛的生活に明け暮れたフランスの恋愛の達人は、愛についてそのように認識しているのだろうか。

愛によって孤独から逃れようとしても、どうも愛そのものが孤独を呼び寄せるものであるらしい。何だか、よくわからないが、経験的に(大した経験じゃないけれど)僕もその認識には頷くところがある。しかし、そうだとすると、孤独から逃れる術はないのかもしれない。

で、僕自身はどう思っているかというと、「愛も根本的には人間を孤独から解放しないかもしれないけれど、愛する人がいない人生は生きる価値がない。それに、孤独=不幸という認識ばかりではない。孤独をきちんと引き受けて、それぞれのスタンスで折り合いをつけて生きていくのが人間なんじゃないの」ということですね(何だか折衷案的だなあ……)。

■2001年1月26日号

十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com

二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。

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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】 No.0788  2001/01/26.Fri.発行より転載
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