118いい輪
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04/01/09掲載

十河 進

1973年のためのレクイエム

●泣かないのか泣かないのか─1973年のために

「泣かないのか泣かないのか、1973年のために」という芝居がある。清水邦夫が戯曲を書き、石橋蓮司と蟹江敬三が主演した。演出は商業演劇に進出する前の蜷川幸雄である。銭湯で会ってしまった元全共闘の男と機動隊員の話だ。

もうひとつ、1973年をタイトルにした小説がある。村上春樹の2作目の中編「1973年のピンボール」だ。これは大江健三郎の「万延元年のフットボール」を意識したタイトルなのだろうか、と本が出た当時、僕は思った。

万延元年は桜田門外で大老の井伊直弼が水戸藩士たちのテロにあい、首をとられた年である。もっとも、大江の小説は、そんなこととは関係はない。過激なパロディスト筒井康隆が「万延元年のラグビー」という井伊直弼の首をラグビーのボールに見立てたグロテスクな小説を書いているだけだ。

しかし、清水邦夫と村上春樹は、なぜ1973年にこだわるのか。清水邦夫の芝居は70年代後半に初演され、村上春樹の小説は1980年6月に発行された。

1973年とは、どんな年だったのだろう。

1月1日、森恒夫が東京拘置所で自殺したニュースで、1973年はスタートした。連合赤軍のリーダーとして多くの同志をリンチで殺した彼は、「唯銃主義は誤りだった」という遺書を残して死んだ。

1月13日、前年の「ゴッドファーザー/THE GODFATHER」(1972/175分)の大ヒットを受けて(真似て)、日本でも実録ものを作ろうとなり、東映が自社のスターをすべて動員して制作した「仁義なき戦い」(1973/99分)が公開され、大ヒットした。

「少年マガジン」では1月1日号から梶原一騎原作「愛と誠」の連載が始まり、5月19日号では5年4ヶ月もの間リングで戦い続けた矢吹丈が「真っ白な灰に燃え尽き」て僕たちの前から消えた。

ジョーのモデルと言われたこともある大場政夫がスポーツカーをガードレールに激突させて死に、膨大な作品を残してピカソが老衰で死に、「天皇の世紀」を完成させた大仏次郎が癌で死んだが、ジョーの最期ほど僕は悲しまなかった。

5月21日、山口百恵がデビューした。13歳らしい純情な歌「としごろ」はあまりヒットせず、2曲目の「青い果実」で純情路線を放棄した結果、大ヒットし、続く「ひと夏の経験」では「女の子の大事なものをあげるわ」と言われて鼻の下を長くした輩が多かったのか、レコードが飛ぶように売れた。

7月にはNHKで「刑事コロンボ」の放映が始まり、「うちのカミサン」という言葉が言いやすくなった。当時はまだカミサンはいなかったが、僕は今「うちのカミサン」と言っている。8月には、吉永小百合を15も年上のオヤジに奪われたサユリストたちが荒れた。

10月6日、「ベトナムに平和を!市民連合」ことベ平連の最期のデモが東京で行われた。そのデモには、もう僕は参加していない。ただ、小田実や小中陽太郎、開高健など、ベ平連のメインメンバーが来ていたかもしれない。

10月22日、甲子園で0.5ゲーム差で首位にいた阪神に勝ち逆転優勝で9連覇を決めた読売巨人軍は、怒り狂う阪神ファンに襲われた。

阪神ファンの怒りが嵐を呼んだのか、翌日から日本は第一次オイルショックに襲われる。東京の夜はネオンが灯らず、テレビは夜12時以降の放映をやめた。なぜか、トイレットペーパーが不足してスーパーには行列ができる。人々がこれほどトイレットペーパーを求めていたとは、誰も思わなかっただろう。

12月13日、CMディレクターとして数々の名作を作ってきた杉山登志が自室で首をくくった。有名な遺書が残った。

──リッチでないのに、リッチな世界などわかりません。

──ハッピーでないのに、ハッピーな世界などえがけません。

そして、12月31日、NHKホールの舞台の上には、美空ひばりがいなかった。弟のやくざがらみのスキャンダルで、彼女は紅白の選に漏れたのである。

●1970年の夏を懐かしむ「風の歌を聴け」

1979年のことだ。その春、村上春樹が「風の歌を聴け」で群像新人賞を受賞した時、友人が電話をかけてきた。「今度の群像の新人賞がいいから読め」と彼はわざわざ僕に教えてくれたのである。僕は、さっそく群像を買いにいった。

当時、僕は就職して4年めで、ある月刊誌の編集部にいた。結婚してからも3年以上がたっていた。早くに結婚した僕は、若く、貧しかった。学生時代の夢は遙か遠くに去り、毎日の仕事に追われ深夜まで働いていた。僕らは、何かを見失っていた。

「風の歌を聴け」は、僕らの喪失感を描き、失ってしまった何かを思い出させてくれる小説だった。カート・ヴォネガット・ジュニア(当時はまだジュニアが付いていた)がよく使う言い回し「そういうものだ」という言葉の繰り返しも、僕には心地よく響いた。

カート・ヴォネガット・ジュニアやリチャード・ブローディガン、フィッツジェラルドなどの影響を言う評論家もいたが、だからといって小説の価値が下がるわけではない。先行作品に影響を受けていない小説や映画など、あり得ないのだ。

「風の歌を聴け」は、僕と同世代の大森一樹監督の創作意欲を大いに刺激したらしい。映画化されATG(アート・シアター・ギルド)で1981年に公開された。

当時、僕は担当編集者として大森監督に連載原稿をもらっていた。「風の歌を聴け」映画化の話を聞いた時に、僕も愛読していることを言うと、監督は「今、シナリオにしているのだけど、だんだん、あの小説のどこがいいんだか、わからなくなった」と言っていた。

村上春樹の中学の後輩である神戸出身の大森監督は小道具(?)として、81年の時点ではもう廃止されていた神戸行きドリーム号を登場させた。原作ではバスとしか書かれていないが、東京駅八重洲南口から出ていた長距離バスである。1970年(「風の歌を聴け」は1970年8月8日から8月26日までの話だ)当時には、神戸までの国鉄運賃だけで乗れたのだ。

1970年、僕も神戸行きドリーム号にはよく乗った。そのまま神戸埠頭で高松行きフェリーに乗り込む運転手ひとりの車を掴まえれば、乗員2名までは乗船券がいらないから只でフェリーに乗れたのである。最も安く故郷へ帰る方法だった。その一年間、僕は故郷に会いたい人を残していたのだ。

映画版「風の歌を聴け」は、小林薫が演じる主人公がドリーム号で神戸を離れるシーンがラストだった記憶がある。そして、神戸行きドリーム号に対する思い入れを描いたためにノスタルジーを誘い、一度、試写会で見ただけだが、僕の思い出の映画になった。

ミステリアスな雰囲気のレコード店の少女は真行寺君枝が演じ、ヒカシューの巻上公一が鼠を演じ、ジャズ・プレイヤーの坂田明がジェイズ・バーのジェイを演じた。

●ピンボールが象徴する「失われてしまった何か」

「1973年のピンボール」には「風の歌を聴け」の主要人物たちが登場し、ジェイズ・バーにあったピンボールマシンと同型の「3フリッパーのスペースシップ」が重要な役を担う。この小説だけで独立して読めるが、「風の歌を聴け」から3年後の「僕」であると理解するとわかりやすいだろう。

僕は「1973年のピンボール」を1980年の発行以来、何度読み返したかわからない。初版の単行本はもちろん持っているが、電車の中で読むために文庫が出てすぐに買い、それがボロボロになったのでまた買った。

村上春樹がことあるたびに書いているが、彼が数え切れないほど読み返したというフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビィ」と同じように、僕は「1973年のピンボール」を何かのきっかけで取り出し読み返す。

何がそれほど僕を惹き付けるのだろう。

おそらく、それは主人公と「3フリッパーのスペースシップ」の再会シーンの切なさが僕の心の中の何かを掻き立てるからだ。あれほど心に残るシーンを小説で描き出せる才能には、僕は全面的に降伏するしかなかった。

主人公は再会した「3フリッパーのスペースシップ」のピンボールマシンと会話する。まるで、昔、別れた恋人と話すように……。ピンボールマシンは生きることの疑問に答え、傷ついた主人公の心を慰め、疲弊した精神を癒す、まるで神の声のように……

ピンボールマシンは、どんなものにも読み替えができるだろう。

言ってみれば、この小説の中でピンボールマシンとして具現化されているものは、「失われて二度と戻ってこない何か」である。それは自分にとって最も大切な何かだったのに、いつの間にか目の前からなくなり、再び出会えたとしても、それはもう昔の輝きを失ってしまったもの、なのだと思う。

人は、そういうものをいっぱい抱えて生きている。しかし、生きていくことは、そういうものを次第に失くしていくことだ。でも、何かを失えば、何かが新しく手に入る。そうやって手に入れた何かも、やがて時間と共に消えていく。得て失う、その繰り返しが生きていくことなのだと思う。

村上春樹の小説が僕を惹き付けるのは、この「喪失感」の切なさや悲しみを抽出し昇華し、それを適切に文章化してくれるからだ。甘美と形容されるような底の浅いノスタルジーではなく、人間存在の根元にかかわるような深さがそこには描かれている、そう思わせるのである。

●1973年は何かを喪失した区切りの年

「1973年のピンボール」の主人公は「3フリッパーのスペースシップ」と再会し、失われたものは二度と戻ってこないことを改めて確認する。そのことによって、彼は未来に向かう意志を得る、あるいは、生きていく覚悟を決める。一緒に暮らしていた双子を見送り、去ったものは二度と戻ってこないことを覚悟する主人公の精神の安定を感じさせて小説は終わる。

1973年とは、何かが失われてしまった区切りの象徴なのだと僕は思う。もしかしたら村上春樹にとっては、現実的に1973年だったのかもしれない。それは、世代的なものでもあると思う。誰にでも「何かを決定的に失ってしまった区切りの年」は存在するだろう。

僕は1973年に21歳で、まだ大学生だった。その年、何かが決定的に失われたという記憶が僕にもある。1972年の春に連合赤軍事件があり、彼らが革命を起こす前に自壊したことを知った。その年の夏には、今太閤ともてはやされて、田中角栄が首相になった。

大学には急速に秩序が戻りつつあった。大学だけではなく社会が秩序を取り戻し、若者たちは大人になることを強いられ始めた。それは、時代の雰囲気だった。急速に何かが世界を覆い始めたのだ。比喩的に言えば、「3フリッパーのスペースシップ」のような時代遅れのピンボールマシンは、どこを探しても置いてはいなかった。

1973年、僕の高校の同級生たちは大学4年になり、就職活動を始めていた。僕は大学へ入るのが一年遅れたので、まだ猶予があったが、大阪や京都の大学に入っていた連中が会社説明会や就職試験のために上京し、そのたびに僕の下宿に泊まっていった。

やがて、彼らはひとりふたりと就職が決まっていった。ひとりは富士通に決まり、ひとりは小学館に決まった。もうひとりは講談社に決まり、ひとりはヨーロッパへ留学することになった。

彼らの就職活動の結果が、僕に焦りを感じさせていた。僕には、卒業したら結婚するつもりの相手がいた。だから、彼らのように安定した企業に入れるだろうかという焦りと、同時に彼らが何の抵抗もこだわりもなく就職活動をしている姿に反発するものも感じていた。

その年の秋にオイルショックがあり、世間は騒然となった。文字通り暗く寂しい夜が続いていた12月、僕は結婚しようと思っていた相手からいきなり「故郷へ帰ることにした」と宣言され、彼女の荷造りを手伝った。

数年間、東京で暮らしたにしては彼女の荷物は少なかった。荷造りをしながら僕は何を考えていたのか、今となっては思い出すことはできない。ただ、その時の気分だけが甦ってくる。将来の不安と漠然とした喪失感が、僕の気持ちのすべてだったような気がする。あるいは見捨てられたような心細さだったのかもしれない。

東京駅で彼女を見送った後、何かが完全に終わった、大切な何かが永遠に失われてしまったのだ、と僕は感じていた。

■2001年2月23日号

十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。

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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.0807  2001/02/23Fri.発行より転載

「日刊デジタルクリエイターズ」サイトにバックナンバーはすべて掲載しています
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