04/01/23掲載
十河 進
サヨナラだけが人生か
●花は散り人には別れがやってくる
「サヨナラダケガ人生ダ」という言葉を最初に覚えたのはいつだっただろう。何だか、人生の真実を衝いている気がして印象に残ったものだった。まだ子供だった僕は、そんな言葉を吐いてみたいと憧れたのかもしれない。
高校2年の時だったと思う。早熟な友人が「『サヨナラダケガ人生ダ』って言ったのは、映画監督の川島雄三だろう」と教えてくれた。僕は、その時には川島雄三が何者だか知らなかったし、映画も見たことはなかった。
物知りの彼の言葉を僕は信用し、ずっと川島雄三監督のオリジナルのフレーズだと思っていた。上京した年に銀座並木座で彼の代表作「幕末太陽傳」(1957/110分)を見て、いかにもそういうことを言いそうな監督だと思った。
しかし、同じ頃、吉田喜重監督の岡田茉莉子映画出演100本記念作品「秋津温泉」(1962/112分)を見ていると、主人公の長門裕之が「花ニ嵐ノタトエモアルゾ、サヨナラダケガ人生ダ」と言うシーンが出てきた。
その時、僕はもしかしたら太宰治が言った言葉なのだろうか、と一瞬考えた。長門裕之が演じた終戦直後の無頼な文学青年が吐いた言葉だからだが、いかにもアフォリズム好きの太宰が言いそうな言葉だった。
僕は「サヨナラダケガ人生ダ」というフレーズしか知らなかったのだが、その前に「花ニ嵐ノタトエモアルゾ」というフレーズが付くと、またニュアンスが違って、なかなかいいな、と思った。
この場合の花は、やはり桜だろう。満開の桜に春の嵐、というイメージだ。花はいつか散り、人にはいつか別れがやってくる。花は散るから美しい。人は別れがあるから、いつまでも相手の面影が心に残るのだ。
やはり同じ頃、僕は浅川マキの「夜が明けたら」が一曲目に入っているアルバムを愛聴していたのだが、その中のひとつに寺山修司が作詞した曲があり「サヨナラだけの人生も〜」という一節が出てきた。天才歌人だった寺山修司は、誰かの言葉を本歌取りしているのだと僕は思ったが、それでも最初は誰が言った言葉かはわからなかった。
それから長い年月が過ぎて、向井敏さんの「文章読本」を読んでいたら、唐の詩人干武陵の「勧酒」を井伏鱒二が訳したものの一節だと判明した。僕は井伏鱒二は高校生の時に出た「黒い雨」を読みかけで投げ出して以来、一度も読んだことがない。
川島雄三監督は井伏鱒二原作の「貸間あり」(1959/112分)という映画の中で、有名になったこのフレーズを使っている。
コノ盃ヲウケテクレ ドウゾナミナミ注ガシテオクレ
花ニ嵐ノタトエモアルゾ サヨナラダケガ人生ダ
川島雄三監督は20歳で小児麻痺に罹り、ずっと身体が不自由だった。さらに筋萎縮症に冒され縮んでいく自らの身体を酷使して名作を作り、40代半ばで死んだ。日本軽佻派を名乗り、小津安二郎監督の「東京物語」(1953/136分)や黒澤明監督の「七人の侍」(1954/207分)と並んで日本映画の名作と言われる「幕末太陽傳」を遺した。
川島雄三監督については弟子の藤本義一が小説の形で書いた「生きいそぎの記」に、その風貌や生き様が活写されているが、常に自分の死を意識していたのだろうことは想像に難くない。自虐的でもあったようだ。そんな彼は、自分に言い聞かせるように「花ニ嵐ノタトエモアルゾ サヨナラダケガ人生ダ」とつぶやいていたのだろうか。
●サヨナラとカタカナで書くのも嫌いではない
「さよなら」という言葉は好きだ。オフコースが歌っても、都はるみが歌っても、「さよなら」という言葉は心に沁みる。
「さよなら」に関しては、様々な作家が工夫を凝らして名セリフを考えている。有名なのは、レイモンド・チャンドラーが書いたフィリップ・マーロウの「さよならをいうのは、わずかのあいだ死ぬことだ」というフレーズだろうか。
僕はこれをチャンドラーのオリジナルだと思っていたのだが、イラストレーターでエッセイストで映画監督の和田誠さんによれば、元ネタがあるという。もっとも、マーロウもこの決めゼリフの前に「フランスのことわざだ」と断ってはいるが……
この場合の「さよなら」は、おそらく「もう二度と会えない人」を送る「さよなら」だろう。明日また会える人とサヨナラするのに、わずかの間でも死んでいたら命がいくつあっても足りない。
ちなみに僕は「さようなら」と表記するより「さよなら」と書く方が好きだ。それにサヨナラとカタカナで書くのも嫌いではない。日本語には「あばよ」とか「さらば」とか「またな」など、別れの言葉はいろいろあるが、やはり「さよなら」に留めを刺す。
中原中也の詩にも「さよなら、さよなら」のリフレインが印象的な「別離」という作品がある。「さよなら」を繰り返すことで、詩の主調低音が響いてくるような感じになる。ジャズで言えば、ウォーキングベースのように常に響いている音である。こんな具合だ。
さよなら、さよなら!
あなたはそんなにパラソルを振る
僕にはあんまり眩しいのです
あなたはそんなにパラソルを振る
「さよなら」は言い方のニュアンスで、いろいろ伝わる部分が変わるのだろうが、やはり「もう二度と会えない人」との別れの「さよなら」には、深い想いを伝える響きがある。
僕は、幸いなことに今まで大切な人とのサヨナラをしてこなかったような気がする。カミサンとは16の時に出会い途中いろいろあったけれど、サヨナラをせずに30年以上一緒にいるし、まだ近い家族を亡くしたことはないので最後のサヨナラをしたことはない。
会わなくなった友だちはいるが、月日が経つうちにいつの間にか疎遠になってしまった感じだから、サヨナラをした覚えがない。今までで一番辛いサヨナラは、一緒に仕事をしたことのあるKさんの事故死だった。
●出会いと別れの繰り返し
最近、「サヨナラダケガ人生」なのだろうか、と思うことがある。サヨナラの前には出会いがある。出会いこそが人生なのではあるまいか──歳をとったせいか、どうもそんな風に思えるようになってきた。
不思議なもので、若い頃には「サヨナラダケガ人生ダ」というフレーズが心に残ったのに、この歳になると逆に「いろんな出会いが人生だ」と思えてくる。人や物や体験など、まだ新しい何かと出会えるだろうかと考えている。
出会いは不思議だ。僕は、今まで仕事上の転換が何度かあった。8ミリ映画雑誌からカメラ雑誌に異動した時、カメラ雑誌からビデオ雑誌に異動した時、ビデオ雑誌から広告専門誌に移り、さらにDTP制作でデジタルグラフィックスの雑誌を立ち上げた時など、それまで培ってきた知識や人脈がいきなり役立たなくなる事態に陥ることが多かった。
そんな時には、必ず新しい出会いがあった。だから未だに僕は保っている。DG(デジタルグラフィ)という季刊誌を立ち上げることになった時にも不思議な出会いがあった。1997年の夏のことである。
それまで、2年間で3冊、僕は月刊の広告専門誌の編集部に在籍しながらプロ向けのデジタルフォトのムックを出していた。2号目からはDTP制作だった。それを定期刊行にしてデジタルフォトだけではなく、デジタルグラフィックスへ領域を広げることになった。
ちょうどその頃、広告制作会社から独立することになったという石川淳哉さんに紹介された。デジタル部門の立ち上げを手がけた石川さんは、広告グラフィックスのデジタル制作に精通し、自ら立ち上げる会社もddl(デジタル・デザイン・ラボラトリー)と名付けていた。
デジタルフォトの世界に関してはかなり詳しくなっていたが、デジタルデザインやDTPに関してはまだまだ知識や情報に疎かった僕に同情した神様が、石川さんとの邂逅を仕組んでくれたのだとしか思えなかった(それにしては石川さんは天使という風情からは遠いと思うけど……。すいません、石川さん)。
ddlには、DGのデザインとDTP作業も依頼することになり、創刊号では石川さんに取材や原稿書きまでお願いすることになった。
その後、DGは季刊誌という形態がデジタル世界の変化の速さに対応できず、その要素を月刊誌に戻すことにしてほぼ3年で休刊になったが、石川さんとddlは発展を遂げ多くのスタッフを抱えて広告グラフィックスからWeb制作まで様々な仕事をしている。先日も石川さんはJPCのセミナーで講師をやっていた。
そんな石川さんが亡くなったKさんの大学時代の親しい同級生だったと知ったのは、知り合ってからずっと後のことだった。Kさんの葬儀の時にも来てくれていたという。
もしかしたら、僕のデジタルデザインに対する知識や情報のなさに同情したのは神様ではなく、天国にいるKさんだったのかもしれないと思うことがある。彼女は音楽家として高名な祖母の名前キクコから二文字をもらったのだろう、キクノという古風な名前を持っていた。
ありきたりだけど「出会いと別れの繰り返しが人生だ」と言うべきなのかもしれませんね。
■2001年3月9日号
十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.0817 2001/03/09Fri.発行より転載
「日刊デジタルクリエイターズ」サイトにバックナンバーはすべて掲載しています
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