04/03/12掲載
十河 進
最も美しく輝いている時
●男のまなざしを感じさせる映像
映像のエクスタシーというものは、確かにある。そう思わせられる映画に久しぶりに出会った。美しく官能的で、最初から最後まで背中がゾクゾクし通しだった(別に風邪を引いていたわけではない)。
朝日新聞映画担当記者の秋山登さんは「映画に酔うという至福の時間をもたらせてくれる作品である」と書いていた。同感だ。映画に酔う至福の時間を過ごしたのは、20年前に鈴木清順監督の「陽炎座」(1981/139分)を見て以来かもしれない。
映画を見終わってからロビーでサウンドトラックのCDを購入して帰り、毎日、繰り返し聴いている。メインテーマに使われている曲を聴き、その時の映像を反芻している。
チャイナドレスを着て髪をアップにした女は、ハイヒールを履き端正な姿勢で屋台への階段を降りていく。そのスローモーションの動きは、男の視線が捉えた姿に他ならない。その映像は彼女の姿を少しでも長く留めおきたいと願っている男の想いを表現する。
そこに重なる音楽は鈴木清順の「夢二」(1991/128分)で使われたテーマだ。ヴァイオリンとチェロの弦の音が心に沁みる。いつまでも耳に残る。その音と映像が最初に現れた時、僕は本当に背筋がゾクリとした。女優の美しさ、影を強調した照明の見事さ、ハイスピード撮影の動き、男の主観的な視界を映画は創り出していた。
その時、すでに男は女を恋している。恋をした男のまなざしが捉えた女の姿は美しい。そのひとつひとつの動きを見落とすまいとする男の視線は、女の動きをゆっくりと追いかけていく。
この映画は「視線の映画」であり「まなざしの映画」だ。60年代風にアイラインを強調した女のメイクは、キリリとした彼女のまなざしに観客の視線を集めるためのものに違いない。
男と女は同じ日に隣同士に引っ越してくる。香港の建て込んだ住宅事情を別にしても、狭い廊下をふたつの引っ越し荷物が行き交い混乱するのは避けられない。男は自分のものではない本が紛れ込んでいるのを見付けて、初めて女と口をきく。
男のまなざしには、すでに女への好意が見える。女の視線はまっすぐに男を射抜き、男をすくませる。何かが起こる予兆をはらんでいる。
やがて、女は夫の不倫に気付く。それも、相手は男の妻なのだ。隣の部屋に夫がいるのを知った女は、シャワールームで声を殺して泣く。初めて女が激情を表すシーンである。
男も妻の不倫を知る。それを確認し合った男と女は、それぞれの夫と妻の行動を辿ろうとする。ふたりの関係はどのようにして始まったのか、最初にどちらが誘ったのか、男と女はそれぞれ自分たちの伴侶の不倫相手になり、それを知ろうとする。だが、それはいつしか本物の想いになっていく……。
女は常に緊張を強いるチャイナドレスに身を包み、高い襟で強調される端正な姿勢を崩さず、一度もチャイナドレスを脱がない。それは彼女の生き方の象徴だ。崩れを見せず、常に己を律して生きている。だが、背を伸ばし視線を高く上げた黒い瞳には強い意志が漲り、内面の燃え上がる想いをうかがわせる。
男も同じだ。常に髪を乱さず、ネクタイを外さない。だが、男は何度か上着を脱ぎネクタイを緩める。その外面の変化はふたりの心のすれ違いの象徴として読み取れる。女は男の部屋から出られなくなり、そのベッドで横たわる時でさえ、髪もドレスも乱さずハイヒールさえ履き続けている。
相手に惹かれる気持ちを抑え続けたように……
ウォン・カーウァイ監督の「花様年華」(2000)は昨年のカンヌ映画祭に出品され、トニー・レオンが主演男優賞を獲得した。美しい映像を創り出したスタッフは高等技術院賞を獲得した。「カンヌで一番美しい作品」と評せられた。
「花様年華」とは、女性の人生でその人が最も美しく輝いている最盛期のことを示す言葉であるらしい。女を演じたのはマギー・チャン。28着のチャイナドレスを着替えるマギー・チャンは本当に美しく見惚れる。
「満開の花のように、成熟した女性が一番輝いている時」というタイトルは、マギー・チャンによって体現されている。
●抑制することの美しさに酔う
「花様年華」とは女性に対して使う言葉らしいが、この映画はふたりの男女の「人生で最も美しく輝いている時」を描いている。互いに伴侶に裏切られた辛さに耐え、そして相手を想うせつなくやるせない日々……、しかし、それはふたりにとっては「花様年華」であり、「人生の時の時」だったのだ。
映画の設定は1962年。男女の関係に寛容な時代ではない。世間をはばかり、身を潜めて男女は会う。軒端で雨を避ける男と女、ホテルの廊下に佇む女、ホテルの部屋で女を待つ男、夜更けのタクシーの中の男女、囁き合うような会話、そんなシーンのひとつひとつが見事な情感を漂わせる。
女は男の胸に飛び込むことはできない。男は、女の夫になりきり自分の妻を誘惑する設定でなければ、女の手さえ握れない。ふたりは抑制する。耐える。堪えている。
当たり前のことだが、抑制することでふたりの内面で想いが募っている。伴侶に裏切られた痛みがふたりを近付けるのだが、それは結局、きっかけにしか過ぎない。ふたりは出会った時から惹かれ合っていたのだ。
もちろん裏切られた者同士の辛さややるせなさがふたりをさらに親密にし、それぞれの夫と妻になって彼らの関係を想像し再現することが共犯者的な意識を高めていく。それは、やがて相手をかけがえのない存在にしてしまうのだ。
この世でただひとりのかけがえのない存在……
女は耐えきれず「苦しいほど悲しい」と嗚咽を洩らす。隣室で夫が他の女と寝ているのに気付いた時に続いて二度目の激情の発露だ。だが、今度の彼女の涙は男への想いを抑えきれない苦しみが生んだものである。
なぜ、それほど抑制する──思わず僕はそう思った。
しかし、スクリーンの男女が抑制し耐えていることで、僕はその映画の美しさに酔っているのである。じっと自分の気持ちを抑え、密かに思い続ける。惻々と主人公たちの想いが画面から伝わってくる。
だが、主人公たちの耐え難いほどの想いが我が身に感じられ、ヒロインの「苦しいほどの悲しさ」が胸に迫って、「もういい。それほどまでに押しとどめることはない」と僕は言いそうになったのだ。
この映画は「カンヌで一番美しい作品」と評せられた。それはもちろん物語、俳優、女優、映像、音楽などすべてが美しいのだが、美しさを感じさせる最も大きな要素は「相手への狂おしいまでの想いを自分の中に留め、抑え耐えて生きている美しさ」なのである。その慎ましさが美しい。
女は、もう一度涙を流す。想いが募り苦しく耐えられなくなった男がシンガポールへ行くことを決意したことを知った夜に、である。男は、ついに女への想いを告白する。女は「本気になるなんて…」とつぶやく。
夫の相手としてではなく、妻の相手としてではなく、初めて自分たち自身になってふたりは手を握り合い、別れを確認する。だが、立ち去る男に耐えきれず、女は涙を流す……。
すぐれた映画は言葉では語らず、画面のすべてで何かを伝えてくる。女優のほんの少しの仕草、まなざし、女を浮かび上がらせるわずかな光、闇の中に溶け込もうとする男の背中……そんなすべてのものが僕に彼らの哀しみを伝える。
その後のシーンも忘れがたい。深夜のタクシーの後部座席で女は初めて「帰りたくない」とつぶやき、男の肩にもたれるのである。その後の出来事を、僕らは想像するだけだ。映画は何も描かない。
●ぼくたちに花様年華はあったか
満開の時、盛りの時は過ぎてゆく。
「花様年華」の男と女は「人生で最もせつなくやるせなく辛かった、しかし、かけがえのない相手と過ごした最も輝いていた時」の記憶を胸に生きていく。
この映画を見ている時に、僕は自分の「花様年華」はいつだったろうと記憶を探った。いや、正直に言うと、記憶を探らなくても、それは勝手に浮かび上がってきたのだったが……。
「あれが俺の最も輝いていた時だった」と思えることが、僕にもひとつはあった。いや、規準を下げれば、もうひとつくらい増えるかもしれない。50年近く生きてきたのだ。ひとつもなかったら、本当に哀しい。
若い頃の僕の口癖のひとつに「ぼくは二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」というポール・ニザンの言葉があった。当時、有名だったフレーズだ。
それと同時に僕はランボウの詩のフレーズをよく口にした。
──時よ、こい
ああ、陶酔の時よ、こい
──ああ、心がただ一筋に打ち込める
そんな時代はもう再びこないものか
その頃の僕には、人生で一番美しい時期、あるいは陶酔の時というものが想像できなかった。いや、今から振り返れば、人生そのものが想像できなかったのだと思う。「あれが俺の一番輝いていた頃だった」と思える時だって、今から振り返るからそう思うのであって、その時は辛い時期だったに過ぎない。
人は「陶酔の時よ、こい」と願いつつ、陶酔の時に気付かずに過ごしてしまい、過ぎ去った後で「心がただ一筋に打ち込める、そんな時代はもう再びこないものか」と悔やむばかりのような気がする。
「花様年華」には、最初と最後に詩のようなフレーズが掲げられている。エピローグとして出る字幕は次のような意味であるらしい。
──男は過ぎ去った年月を思い起こす。
ほこりで汚れたガラス越しに見るかのように。
過去は見るだけで触れることはできない。
見えるものはすべて幻のように、ぼんやりと……。
そう、過去は振り返れるが、もう二度と触れることはできないのだ。
しかし、「花様年華」の男女は、抑えに抑えていた想いを最後に堰が切ったように溢れさせ(もちろん、その表現は控えめで慎ましやかだったが)、一夜とはいえ充実した「人生の時の時」を迎えたのだ。
だから男はアンコールワットの壁面の小さな穴にすべての秘密を封じ込めたのかもしれない。封じ込めなければ、その後の人生を生きていけないほどの想いが残ってしまうからである。
■2001年4月27日号
十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】 No.0851 2001/04/27.Fri.発行より転載
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