04/06/11掲載
十河 進
環境にスポイルされない人々
●貧しさを澄み切った目で記述する高潔な精神
子供の頃、実話だと聞いて感動した本や映画がある。特に「貧しく健気に生きている子供たち」を主人公にしたストーリーはよく映画になり、月に一度あった映画教室で教師に連れられて見にいったものだ。
しかし、実話であるだけに僕はその後の彼らの運命が気になって仕方がなかった。その中でも特に気になっていたのは「山びこ学校」の生徒たちと「にあんちゃん」の主人公たちのその後である。
数年前に佐野眞一の「遠い『山びこ』」(文春文庫)というノンフィクションを読んだ。「遠い『山びこ』」は「山びこ学校」に作文(綴り方)を載せた生徒の数十年後を追った作品である。
先日、書店で岩波文庫の棚を見ていたら「山びこ学校」が並んでいた。パラパラとめくったら、あの有名な詩が目に入った。
雪がコンコン降る。
人間は
その下で暮らしているのです。
「山びこ学校」は、僕が生まれる以前の昭和26年(1951年)3月5日に出版された山形県の山村にある山元中学校の生徒たちの文集である。クラス全員43名の作文が掲載されていた。彼らの担任教師は若き無着成恭だった。
無着成恭は昭和23年(1948年)に山形師範学校を卒業し、すぐに山元中学校に赴任する。21歳だった。彼は昭和29年(1954年)の春、駒沢大学に編入学するまでの6年間、学校の寮に住み、その山村の学校で子供たちを教えた。民主教育への情熱に燃える彼は、子供たちに自分の生活を作文にすることで社会を考えさせようとする。
子供たちは無着の教育に見事に応える。「山びこ学校」の中で最も有名になった作文は、江口江一が書いた「母の死とその後」である。この作文は全国コンクールで一位になり文部大臣賞を受賞した。授賞式のために無着は江一を連れて上京するが、江一には着ていく学生服さえなかった。
──僕の家は貧乏で、山元村の中でもいちばんくらい貧乏です。そして明日はお母さんの三十五日ですから、いろいろお母さんのことや家のことなど考えられてきてなりません。それで僕は僕の家のことについていろいろかいてみたいと思います。
「母の死とその後」はそのように書き始められている。その後、妹と弟が他家へもらわれていかなければならない江口家の悲惨な状況が記述される。戦後の山形の山村である。その中でも最も貧乏な江口江一の家は目を覆うほどの貧しさだった。
しかし、この作文の素晴らしいところは、自分の家の貧しさや悲惨さを澄み切った目で記述していく江一の少しも引け目や僻みを感じさせない高潔な精神が感じられるところである。自尊心を保ちつつ、彼は客観的に自分の家の貧しさを検証していく。
貧しさや逆境は人を育てる(こともある)というのが僕の持論だが、その見事な見本がここにある。とても13歳の少年の文章とは思えない。
働き手が江一しかいない江口家では、江一が学校へ行っている余裕はない。無着は級友たちに相談する。その結果、級友たちは江一の手伝いにきて、江一は学校へ通うことができる。そして江一はこのように書く。
──僕は、こんな級友と、こんな先生にめぐまれて、今安心して学校にかよい、今日などは、みんなとわんわんさわぎながら、社会科「私たちの学校」のまとめをやることができたのです。
──お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。
●「山びこ学校」43人の生徒のその後の人生
佐野眞一の「遠い『山びこ』」には、43人の生徒のその後の人生がルポされている。もちろん、消息のわからない人もいる。だが、若くして死んでしまったとはいえ、江口江一がきちんと成長した事実が綴られていて、僕は何となくほっとした。彼は、あの悲惨な状況のままではなかったのだということが、僕を安心させたのだろう。
もちろん人生がハッピーエンドで終わることは稀だ。江一は好青年に成長し、彼の人生で成すべきことを成して死んでいった。少なくとも、あの貧窮の生活の中では死ななかったのだと、僕は中途半端なままで終わってしまった小説の結末を知ったような気分で、江一の人生に想いを馳せた。
関川夏央の「砂のように眠る──むかし『戦後』という時代があった」(新潮文庫)の中にも、「山の民主主義──『山びこ学校』が輝いた時代」という一章がある。ここでは、その当時の米の生産量やその価格など数字的なデータが駆使され、貧しい戦後の状況が客観的に描き出される。
その戦後の貧しさの象徴として「山びこ学校」が捉えられ、同時に無着成恭と子供たちの中に戦後民主主義を見い出し、戦後という時代の空気を肌で感じさせ、さらにはその本質を提出してくれる。いつもながら関川夏央の見事な技である。
関川夏央が「戦後」の象徴としてテーマにしたもうひとつの貧窮は「『にあんちゃん』が描いた風景──日本の貧窮、日本の理想」という章に描かれた安本末子著「にあんちゃん」である。
「にあんちゃん」は安本末子という少女が小学校三年生から五年生までつけていた日記であり、昭和33年(1958年)に光文社からカッパブックスの一冊して出版されベストセラーになった。
昭和27年(1952年)12月に炭坑夫であった父を亡くした安本家の兄弟姉妹は四人。長兄の喜一が二十歳、長女の吉子が十六歳、次兄の高一は十二歳、末子は十歳だった。母は末子が三歳の時にすでに死んでいる。
「にあんちゃん」とは「二番目の兄ちゃん」の意味である。昭和27年に十二歳だった「にあんちゃん」は、生きていれば今は六十一歳である。末子は五十九歳になる。彼らは、幸せな人生を送ったのだろうか?
長い間、気になっていた僕の疑問には関川夏央が答えてくれた。その文章の中で書かれていることだが、「にあんちゃん」の印税で喜一は病気を療養し、高一は高校に復学、その後、慶大を卒業する。末子は早大を出てコピーライターとなり、結婚して子供も生まれたという。彼女は、その後、マスコミに出ることを拒み続けた。
●貧しくても健気に生きる人間たちの映画
今村昌平監督作品「にあんちゃん」(1959/101分)は小学生の映画教室以来、一度も見ていない。だから、長男を長門裕之、長女を松尾嘉代が演じた記憶はあるが、その他の出演者で僕が記憶しているのは、教師役が印象的だった穂積隆信くらいである。
ぴあのシネマブックの映画紹介によると「昭和28年の春、不景気に覆われた佐賀県の小さな炭鉱町を舞台に、父母のいない四人兄弟が貧しくても健気に生きる姿を描いている」という内容である。
僕は「貧しくても健気に生きる」という文章だけでも涙目になれるほど「貧しさに負けずに頑張っている子供たち」に弱い。「負けるな、貧しさに負けずに育った君たちは、きっと立派な大人になれる」とエールを送りたくなる。
もちろん、貧しさに負けていじけた僻み根性の強い性根の曲がった大人になる人たちもいるし、最近の精神病理学の報告では、幼い頃の貧窮は精神的な悪影響を与えると言われている。愛情に包まれ、何不自由なく育った子供の方が精神的安定を示すという報告は、それはそうだろうと思うけれど、ちょっと違うんじゃないか、と僕は異議申し立てをしたくなる。
村上春樹がモーリス・ラヴェルの曲のタイトルからインスパイアされたであろうところの短編「今は亡き王女のための」は、次のような文章で書き起こされている。
──大事に育てあげられ、その結果とりかえしのつかなくなるまでスポイルされた美しい少女の常として、彼女は他人の気持ちを傷つけることが天才的に上手かった。
関川夏央は、映画「にあんちゃん」を語る中で以下のように書いている。
──この映画は戦後民主主義独特の性善説にもとづいていない。誰もが必ずしも善意のひとではない。しかし貧乏という共通の水平線上では不要な悪意を発揮しない、すなわち貧乏にスポイルされない人間たちを描いているのである。
そう、貧乏(という環境)にスポイルされないこと、それが大切なのだ。大事に育てられても、そのことによってスポイルされ厭な人間に育ってしまうこともあれば、貧しさに負けずに育つ人間もいる。結局は、環境ではない。資質だ、と僕は思いたい。江口江一や安本末子のように……
●貧しさが教えるみじめさや屈辱
数年前、近くの市場の中にある安くておいしいと評判の寿司屋へカミサンとランチを食べにいったことがある。ランチだとさらにお得なのだとカミサンが言うので、休暇を取った日の午後にいってみたのだ。
少し時間が遅かったせいか、店は空いていた。テーブル席に子供をふたり連れた母親がいるだけだった。上の女の子は12、13歳くらいだろうか、下の男の子はまだ10歳にはなっていないだろう。子供たちの前にはにぎり寿司が一人前ずつ置かれていた。
「さあ、食べなさい」と母親が言った。男の子が待ちかねたように箸を取った。女の子はゆっくりと「こんなものは、いつでも食べているのよ」という余裕を見せるように箸を使った。
にぎり寿司をほおばった子供たちに向かい「おいしい? おいしい?」と母親は子供たちの顔を覗き込むようにしてしきりに聞いた。男の子は下を向いた。僕は目を背けた。見てはならないものを見てしまった気がした。
しかし、カウンターに座った僕の視線の正面にいた女の子の母親を見返す刺すような目を僕は一瞬、見てしまった。「やめてよ、そんなみじめなこと」と彼女は言いたげだった。母親の言動を恥じていたのではなく、母親の存在そのものを恥じているように見えた。彼女のみじめさは、僕にも伝わった。
しかし、僕には母親の気持ちも想像できた。どういう事情があるのかはわからない。しかし、その日、彼女は子供たちに寿司を食べさせることを決意して、その店に入り経済的な余裕のない中で寿司を注文したのだろう。「おいしい?おいしい?」と聞いた時に、彼女は子供たちからの「おいしいよ」という言葉を聞きたかったに違いない。
その子供たちの返事が彼女の苦労を水に流してくれたことだろうと僕は思う。だが、みじめさだけを娘に感じさせる結果になったのだ。女の子にとって、寿司はどんな味だったのだろうか。
その時の寿司の味を僕も覚えてはいない。僕とカミサンは無言で寿司を平らげ、早々に店を出た。味なんか覚えていられるわけがないじゃないか。
──あの女の子、本当に厭がっている目をしていたね、とカミサンは店を出てからつぶやいた。カミサンも女の子の視線に気付いたのだ。
──まるで「一杯のかけそば」だな、と僕は吐き捨てるように言った。無性に腹を立てていた。貧しいということに、貧しい人間が感じなければいけないみじめさや屈辱に、僕は腹が立って仕方がなかった。あの母親だって余裕があれば、あんなみじめな思いを子供たちにさせずにすんだのだ。
昭和30年代の話ではない。現代に本当の貧乏はないなどと言う輩がいるが、そんなことはない。一億総中流などと言われる今だからこそ、少しでも貧しい者は自分が貧しいことに敏感にならざるを得ない。意識したくなくても、世の中は否応なく常に貧しさを意識させられる仕組みになっている。
街を歩くだけでショーウィンドウの品々が「お前は貧しい、お前は貧しい」と囁きかけてくる。ブランド品を下げた若い娘たちが「お前は貧しい、お前は貧しい」と見せつけてくる。
あの女の子のその後が、僕には気になって仕方がない。今はもう17、18歳くらいだろう。その年頃なら欲しいものがいっぱいあるはずだ。世の中は誘惑に充ちている。彼女は毅然と生きているだろうか。
彼女がみじめさや屈辱にスポイルされずに育っていてほしいと、僕は今もあの時のことを思い出しながら願っている。もう顔も覚えていないけれど……
■2001年8月24日号
十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.0918 2001/08/24.Fri.発行より転載
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