118いい輪
> Play It Again,Sam〜映画まじりで魂の話を〜 > バックナンバー一覧

04/06/18掲載

十河 進

ゴーギャン伝説の誘惑?

●芸術家の魂は一般市民にはわからない?

かつて、芸術家は市民生活のアンチテーゼとして存在した。つまり、普通の生活人として送る人生と芸術家としての人生は相容れないもの、対立するものとして認識され、芸術に殉じるためには幸せで安定した普通の生活を放棄しなければならない、あるいは諦めねばならないものと思われていた。

先日、「月と六ペンス」を読了した。サマセット・モームがゴーギャン伝説にインスパイアされて書き上げた長編小説である。「『月』とは「人間をある意味での狂気に導く芸術的想像情熱を指すものであり、『六ペンス』はストリックランドが弊履のごとくかなぐり捨てた、くだらない世俗的因習、絆等を指したものであるらしい」と翻訳者の後書き(ひどい日本語ですね)にある。

ストリックランドとはゴーギャンをモデルにした主人公だが、この小説で「弊履のごとくかなぐり捨てられるくだらない世俗的因習、絆」とは、彼が若くして結婚した妻であり、彼が生ませたまだ成人しないふたりの子供たちである。もっとも、彼らが自らを「くだらない世俗的因習」だと自覚していたかどうかは不明である。

この小説の中で主人公は40過ぎまで株式仲買人として目立たず地道に暮らしているのだが、ある日、突然に妻子を捨ててしまう。語り手である「私」は「画家になる」と言う主人公に「奥様やお子さんが、乞食をなすってもかまわないとおっしゃるんですね」と問いかけるが、主人公は「ふん、勝手にするがいいさ」とうそぶく。

小説家の福永武彦は「ゴーギャンの世界」で「この孤獨な畫家は、妻子を棄て、家庭を棄て、職を棄てて自分の好むところに専心したエゴイストであると、一般に考へられてゐる」と書いている。実際のゴーギャンには五人の子供があった。その妻子をゴーギャンは絵画のために棄ててしまう。

───彼の藝術は、要するに得たもの(藝術)と喪つたもの(市民生活)との長い闘ひといふことが出来る。

福永武彦は、彼についてそう一言で要約する。あるいは、象徴的に把握する。ここでも芸術と市民生活は対立するものとして認識されている。

昔、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」という小説を読んだことがある。簡単に言えば、詩人の魂(芸術)と一般市民(生活)との対立、あるいは相容れない精神世界をひとりの人間の少年時代から描いたものだ。

ルキノ・ヴィスコンティが映画化した「ベニスに死す」(1971/130分)もトーマス・マンの原作で、ここでは芸術家の魂の遍歴がさらに深化したテーマとして描かれた。

僕は「トニオ・クレーゲル」にも「ベニスに死す」にも感銘を受けたが、しかし、芸術家の魂を持った人間は世俗的な一般市民には理解されないと思い込んでいる芸術家のエリート意識が鼻についたのも事実だ。

世の中には芸術家の精神を理解する多くの人々がいるから、「トニオ・クレーゲル」は名作として残っているのだし、トーマス・マンも本が売れて飯が食えたのだ。読者をバカにしてはいけない、と思う。それとも、彼が想定した市民とは、文学作品も読まず、美術に感銘せず、音楽も理解しない人間たちなのだろうか。

僕には、そんな人間たちがいるとは思えない。人々は美しいものを見たいと思うだろうし、心が癒される音楽を耳にしたいはずだ。時には、精神が浄化される文学を読みたいと、飢えるように魂が求めるはずである。

●ライオンの哀しい知性的な目に惹かれる

その絵を見た時に、僕は何を感じたのだろうか。今も明確には語れない。しかし、何かが僕を捉えた。その絵が発するものの正体はわからなかったが、見知らぬ国への憧れ、あるいは夢、想像、ロマンティシズム、オリエンタリズム、そんなものが伝わったのかもしれない。

いや、今から振り返れば、その絵を描いた男の気持ちが伝わってきたような気がする。もちろん、その時には僕は彼がどのような生涯を送ったのかは知らなかった。しかし、その絵には芸術家の魂が存在したし、その絵を描くことで解放されていく描き手の魂の救済も感じられた。

明らかにリアリズムの絵ではない。しかし、絵そのものは、リアルに細かなところまではっきりと描かれている。その時に、ゴーギャンのタヒチの絵を思い出した。ゴーギャンが楽園幻想に囚われていたかどうかはわからないが、彼のタヒチの絵はあくまでも彼自身が見て描いたものだった。

しかし、その男の絵は、明らかに彼自身が見たことのない世界を描いていた。砂漠で眠るジプシーの女。枕元にはマンドリンのような楽器と壺が置かれている。女の服も敷いた布もカラフルな縞模様で描かれ、この暗いトーンの絵の中に夢の世界を感じさせる配色になっている。

その眠るジプシー女を覗き込むようにしている動物は一体、何なのだろう。ライオンのようにも見えるが、奇妙な姿だ。たてがみは細密に描かれているし、尻尾もライオンを連想させる。しかし、小さく光る目には知性を感じさせる何かが描き込まれている。天空に描かれた月には、きちんと影が描かれ、見方によっては人の顔が浮かんでいるようでもある。

別の絵には、ジャングルの中に立つ笛を吹くシルエットの女が描かれる。葉っぱのひとつひとつ、水辺に生殖する植物は精細に描かれ、頭上の枝からは巨大な蛇が鎌首をもたげている。そこでも満月が、どこにも存在しない画家の頭の中にだけある世界を見下ろしている。

「眠るジプシー女」と題された絵は1897年に描かれ、「蛇使いの女」と題された絵は1907年に描かれている。どちらも、その画家の代表作である。ふたつの絵には10年という時間の隔たりがあるが、画家の憧れはその10年間、まるで変わっていなかったかのようだ。

その絵を描いた男、アンリ・ルソーは1844年にフランス北西部のラヴァル市に生まれ、1910年の9月にパリの病院の大部屋で死んだ。ゴーギャンより4年早く生まれ、7年早く死んだ。9人の子供が生まれたが7人は幼くして死に、ひとりは18歳で死んだ。たったひとり残った娘を嫁にやり、妻は1884年に死んだ。

ルソーはパリ税関の下級官吏として勤めあげ、40歳を過ぎてから絵を描き始めた。彼が絵を始めたのは1880年代の半ばである。セーヌ川に停泊する万国旗を掲げた船を背景にし、遠近法が間違っていると言わしめた巨大な己の姿を描いた、あの有名な自画像は1890年の作品である。

彼は死ぬまで素人の日曜画家だった。

●ゴーギャン的生き方とルソー的生き方

僕はここでゴーギャン的生き方を非難し、ルソー的生き方を肯定しようと思っているわけではない。人の生き方はそれぞれだ。ゴーギャンはゴーギャンとしての生涯を生きたのだし、ルソーはルソーとしての人生をまっとうした。その生き方を比較しても意味はないし、非難したところで仕方がない。どんな人の人生に対しても毀誉褒貶はある。完璧な人生なんてない。

しかし、ゴーギャンは妻子を棄ててタヒチに行かなければ、おそらくその作品を生み出すことはできなかった。彼の内部でマグマのように吹き上げてくる情動が、彼に穏やかで落ち着いた人生を選ばせなかったのだろう。その彼の人生は不滅の作品を生みだした。

ゴーギャンのような人生を送る中で生み出されてきたものもあれば、ゴッホのように狂気の中で描き出されたものもある。あるいは、ピカソのように生前から名声に溢れ莫大な財産を手中にし女たちを愛し長寿をまっとうしながら、膨大な作品を残した芸術家もいる。

しかし、彼らは芸術を誰かのために創り出しているのではない。芸術家は皆、やむにやまれぬ創造への情熱に駆られてエゴイスティックにそれに向かって突き進む。その時、彼は周囲の人間のことなど考えてもいないだろうし、自分が創り出したものによって救済されるかもしれない不特定多数の人間のことなど想像さえしないだろう。

そこで、ルソーである。どちらかといえば彼は芸術家らしくない人生を送ったと言われる。芸術家らしく奔放に生きたわけではなく、妻子を愛し、たったひとり残った娘を嫁にやり、絵画塾などを開きながら老後を送り、穏やかな生活の中で作品を描き続けた。そのことが、彼の絵画に対する情熱を疑わせるのだ。本当の芸術は、そんな風にバランスの取れた穏やかな人生の中からは生まれないのではないか、と。

だが、そこには芸術家=奔放・放浪者・女遍歴・自堕落といったステレオタイプの思い込みがある。同時に、本当に自分のやりたいこと(夢)があるのなら、そのことだけに向かっていくべきだ、それが正しい生き方なのだ、という画一的「夢礼賛主義」の考え方がある。夢を貫き、夢を実現する人生が最も尊いのだという口当たりの良い人生論である。

自分の夢のために妻子を犠牲にしたのなら、そして、その結果、素晴らしい作品を生み出したのなら世間は彼を糾弾しない。なぜなら「彼は芸術家であり、夢を実現したから」だ。自分の夢のために妻子を犠牲にしたけれど、何の作品も生みださなかった人間は単なる「傍迷惑な生活破綻者」としか見られない。

僕にも若い頃の夢といえるものはあった。夢をつぶすように生きてきたつもりはないが、いつの間にか自分の限界も見えたし、日々の仕事や生活に追われてそれを放棄し努力を怠った。格好良く言えば、いつの間にか仕事が面白くなり、仕事での自己実現をめざしたことで若い頃の夢を喪ったのかもしれない。

しかし、何かのために自分の夢を犠牲にしたとは思わない。それは夢を叶えられなかった自分自身への言い訳にしか過ぎない。

まして妻子のために本当にやりたかったことを我慢してきた、などというのは自己欺瞞だと思う。なぜなら、本当にやりたいことと安定した(妻子を養える)生活を比較して、安定した生活を棄てきれなかったのは自分自身であり、その選択の責任は己にあるからだ。

結局、人は生きてきたようにしか生きてこれなかったのだ。日々、迷いながら、後悔することを怖れながら、それでも自分で人生を選択して生きるしかない。何かが自分の人生から喪われていくことを感じながら、長い時間が奪い去っていく何かを自覚しながら、それでも生きていくしかないのだろう。

しかし、と僕は思う。

ルソーは、一度もゴーギャンのような生き方に憧れなかったのだろうか。

■2001年8月31日号

十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com

二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。

================================================================

筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.0923   2001/08/31.Fri.発行より転載
「日刊デジタルクリエイターズ」サイトにバックナンバーはすべて掲載しています
http://www.dgcr.com/

←バックナンバー一覧に戻る

↑Page Top