118いい輪
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04/06/25掲載

十河 進

持続する志

●放埒無頼派が多かった先輩たち

先日、2年ぶりに先輩のTさんの作品集が送られてきた。文学を志し、今も持続して小説を書き続けているTさんに、僕はいつもきちんと読後感を書き送るようにしている。自費出版の軽装本だが、Tさんの作品集としては何冊目になるだろうか。送られてきた小説は河出書房「文芸賞」の何次審査かを通過した作品らしい。

少し前からNHKで宮部みゆき原作の捕り物シリーズを放映していて、高橋英樹が岡っ引きを演じているのだが、先輩の河西さんがその子分役でレギュラー出演している。河西さんとも、もうずいぶん会っていない。河西さんは大学時代から演劇を志していた。

先輩のOさんとKさんも演劇を志し、戯曲を書き、資金が貯まると公演をする。それ以外の時は舞台照明をやっている。そういえば昔、Kさんは松竹新喜劇の照明係として藤山寛美と一緒に地方公演に回っていたことがある。

先輩のNさんはシナリオライターを志し、大学を出て10年近くたって「西部警察」のノベライゼーションを手がけた後、「トラック野郎」シリーズで当てた鈴木則文監督の「パンツの穴」のシナリオライターとしてデビューした。山本陽一と菊池桃子が出る青春セックスコメディだった。

僕の仲間たちも文学青年や映画青年や演劇青年たちだったが、どちらかと言えば常識的であまり無茶な奴はいなかったし、異性関係も純情な奴が多かった。人非人としか思えない女たらし(近いのはいた)とか、誰とでも寝る解放された女(当時は翔んでる女と言われた)みたいなのもいなかった。

しかし、2年先輩の人たちはかなり放埒無頼派が多く、嘘か本当かは確かめようがないが、女に包丁を持って追いかけられたという誇らしいエピソードを持つなど、とんでもない人ばかりだった。芝居や文学を志す人間は破滅的かつ無頼の生活をしなければならないというイメージがまだ支配的だった20世紀後半のことである。

もちろん、みんな大酒呑みで、呑むとさらに無茶な人間になった。当時、今と違ってまったく呑めなかった僕は、いつもビール1、2杯で彼らと付き合い、最後は面倒を見させられる方だったので、実はあまりいい思い出はない。常識的で小心者の後輩だから、酒乱気味の先輩に殴られそうになったこともある。やれやれ、という日々だった。

それでも、先輩たちは「持続する志」の持ち主たちばかりだった。文学を志すTさんも、演劇を志すOさんもKさんも、シナリオライターを志すNさんも、そして役者の夢を実現した河西さんも、僕のようにきちんと就職し生活を安定させ、子供を作り育てるという小市民的生活を放棄し、自分たちの夢を追って生きていた。

●柴田恭平が当てたビンゴの最高賞品

NHKにレギュラー出演している河西健司さんは、大学の頃から本格的に役者をやっていて、たまにしか学校には出てこなかった。結局、中退したのではなかっただろうか。夢を叶えたという意味では、河西さんが夢に最も近いところにいるのかもしれない。

河西さんは東京キッドブラザースから別れた深水龍作・三章兄弟と一緒にロック・ミュージカル劇団「ミスタースリム・カンパニー」を立ち上げた。その旗揚げ公演は赤坂の都市センタービルのホールで行われた。1975年のことである。

ちなみに深水三章さんは「ええじゃないか」(1981/151分)以降、今村昌平作品のレギュラー出演者になっているようだが、よく知られているのは向田邦子作「阿修羅のごとく」の四女(風吹ジュン)の恋人のボクサー役だろう。

「ミスタースリム・カンパニー」は出演者全員が革ジャンにジーンズ、髪はリーゼントに決めて登場し、舞台をバイクが飾り、「右手が恋人」などというオナニーを讃える(?)ミュージカルナンバーを歌い踊ってくれる楽しい劇団である。

河西さんはトップ男優の深水三章、ナンバー2の中西良太に続くナンバー3で、深水龍作さんのオリジナル脚本で公演した。後に「私をスキーに連れてって」(1987/96分)で人気が出る布施博は若手のひとりだった。

河西さんの結婚パーティのことはよく覚えている。女優だった花嫁は「できちゃった結婚」を通り越し、生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。芝居仲間が大勢きていた。僕と仲間たちは役者たちのノリの良さに呆れ、会場の片隅でかたまっていたものだ。

東京キッドブラザースにいた柴田恭平は、ビンゴで最高賞品を当てた。「ビンゴ!」と言って手を挙げ、全員が見守る中を商品を受け取って帰るまで、まるで「あぶない刑事」を見ているようだった。役者は常に人の目を気にしているのだと、その時に悟った。

僕のすぐ近くに宇都宮雅代がいて、さすがに綺麗だと見とれた。三浦洋一と結婚していた頃で仲むつまじい印象だった。トイレで用を足していると、隣にやたらに背の高い男がやってきた。僕とは出ている位置が30センチは違うのではないかと思って見ると、若き古尾谷雅人だった。

1978年、評判になっていた漫画家・石井隆の「天使のはらわた」が日活ロマンポルノとして「女校生 天使のはらわた」のタイトルで映画化された。石井隆作品としては初めての映画化だったと思う。

これにはミスタースリムカンパニーが全面協力したのだろう、脚本は深水龍作が書いており、深水三章が主演で河西さんも重要な役で出た。キネマ旬報に出た映画評で「河西健司の狂気を孕んだ役が印象に残る」と書かれた。確かに、若い頃の石橋蓮司を連想させる感じで、映画の中では最も目立っていた。

●仲間たちとの最後の祝祭

僕は高校生の頃に演劇雑誌の「テアトロ」を定期で買っていたことがある。だからといって僕が演劇青年だったわけではないが、俳優座養成所の募集がなくなった時期に当たり、少し落胆したのは事実だ。大学も早稲田や明治の演劇科入学を検討していた。

ちょうど唐十郎が紅テントで状況劇場を展開し、寺山修司が天井桟敷で芝居を始めていて、新劇内部でも若手の造反が起こり始めた頃だった。演劇の世界のルネッサンスだったのかもしれない。

60年代末、アングラ演劇と言われた世界は坩堝のように沸き立っていた。大学に入った頃には、三田の方で芝居をやっている「つかこうへいが面白い」という評判が聞こえてきた。早稲田小劇場では狂気女優と言われた白石加代子が定期出演し、佐藤信たちが始めた演劇センターは黒テントで「鼠小僧」シリーズを公演した。

先輩たちが大学を出て芝居や文学を棄てずに生きていた頃、僕は仲間たちと芝居公演をすることになった。仲間のひとりが書いた「紅の流れ星」という戯曲で、場所は渋谷警察から少し恵比寿の方に歩いたところにあった天井桟敷を借りることになった。友人は寺山修司に直接会って会場の交渉をした。

大学4年の春のことで、公演はゴールデンウィーク中と決まった。河西さんは舞台美術から裏方まで手伝ってくれたし、Kさんは照明監督として参加してくれることになった。

稽古は3月くらいから始めていたのだが、裏方に決まっていた僕は稽古には参加せず、公演が近づいた頃に手伝うことになっていた。当時の僕は自分が演劇に向いているとは思えなくなっていたし、前年の暮れに故郷へ帰ってしまった現在のカミサンとの問題がいろいろ発生していたからだ。

問題は彼女の親だった。東京にいた間の僕とのことを心配し、帰郷した彼女を親がいろいろと問い詰めていた。結局は「今後、どうするのか。まだ、学生じゃないか」ということだったのだろうと思う。高校時代からの付き合いを知っているだけに、彼女の両親は余計に心配したのだ。

手紙や電話でのやりとりがあった後、とうとう僕はゴールデンウィークに一度、帰郷する約束をさせられてしまった。もちろん、その時、芝居の公演はどうするのだ、と僕は自問した。夢のカケラかもしれないが、かつてのおまえの夢のひとつが実現するのだぞ、という声も聞こえた。

結局、僕は芝居の初日だけを手伝い、後ろめたい思いを抱えて、その夜のハイウェイバスに乗った。僕は仲間たちとの祝祭ではなく、自分の小市民的将来を選択したのである。

あの時、僕は夢に向かおうとする気持ちを棄ててしまったのかもしれない。今でも、あの時の選択が僕のその後の人生を決めてしまったような気がすることがある。

●夢に憑かれた連中で充ちていた街

翌年、仲間たちの中でできちんと会社勤めを始めたのは僕だけだった。就職はしなかったが仲間のひとりがゴールデン街に店を開いた。先輩のOさんも酒場を開き、Nさんの奥さんでテアトル・エコーの女優をやっていた人も店を開いた。酒場で糊口を凌ぎ夢を実現しようというほど悲壮なものではなく、仲間たちが集まる場所がほしかっただけかもしれない。

当時のゴールデン街には、夜になると売れない役者や映画関係者たちがいっぱい集まってきた。彼らはみんな夢に憑かれた連中だった。映画を創りたい、小説を書きたい、文学をやりたい、役者になりたい、と願い、芝居のポスターや自主映画のポスターを酒場のトイレのドアや壁に張ってもらい、ガリ版刷りの詩集や小説集をカウンターの隅に置いてもらっていた。

そんな酒場で酒を飲み、僕は彼らを眩しい思いで見つめていた。自分自身の夢はどこへいったのだろうか、と日々の仕事に追われながら途方に暮れていた。まるで、溌剌とした若者たちを見守る老人になったような気がした。

僕は就職しても、河西さんの芝居はもちろんOさんやKさんの公演があるたびに連絡をもらって見にいった。初日に行くとロビーには送られてきた花が飾られ、華やいだ雰囲気に充ちていた。まさに、祝祭だった。

同じ頃、Tさんは仲間のAさんが興した出版社から作品集を出し、出版記念パーティを開いた。もちろん、僕も出席した。当時、注目の新人作家だった佐々木譲なども来ていて賑やかなパーティだったが、文学を志向するTさんとエンタテインメントをめざす佐々木譲では論争がかみ合わなかった。

僕は先輩たちの夢の実現の現場を確かめるように律義に芝居を見、作品集を読んだ。それは、その当時の僕が「夢を放棄してしまった己」を後ろめたく感じていたからだと思う。

仲間たちとの芝居公演を途中で降りたことは、「夢を放棄してしまった己」の端的な象徴だった。そのことに対するこだわりは長い間、僕の心の底のどこかにとげのように刺さったままだ。あれから途方もない時間が流れたが、今でも僕は芝居の公演に最後まで参加しなかった後ろめたさを解消していない。

数年前のことだが、あの頃の仲間のひとりが東京での生活に行き暮れて「家族を連れて故郷に帰ることになった」と別れを告げに来た。しばらく話した後、「俺もおまえのようにきちんと就職活動をしておけばよかったよ」と、彼は別れ際にぽつりと言った。皮肉ではなかった。後悔している口振りだった。

僕はずっと安定した生活を送ってきたと、仲間たちにも先輩たちにも思われている。オイルショック直後の不況の最中、僕は律義に出版社の入社試験を受け続けた。翌年、結婚する予定だったからだ。相手の親を説得するためには、きちんとした勤め人になる必要があった。

幸い就職した会社は27年にわたって安定して僕の収入を保証してくれた。子供も育ったし、家も手に入れた。だからといって、僕が安定した生活を送ってきたわけではない。ましてや安定した精神生活を送ってきたなどとは、誰にも言わせない。

だから、別れ際に彼が口にした言葉は僕を責めると同時に、「今更、後悔するなよ。おまえはやりたいことをやってきたんじゃないのか」と言いたくなった。彼は、天井桟敷の公演の時に初舞台を踏んだ男だった。その時の颯爽とした姿が、彼が去った後に僕の脳裏に甦った……

■2001年9月7日号

十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com

二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。

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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.0928  2001/09/07.Fri.発行より転載

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