04/07/09掲載
十河 進
切ない目に遭う
●鈴木清順の訳のわからなさ
鈴木清順監督は「訳のわからない映画を作る」という理由で当時の日活の堀社長によってクビにされた監督だ。1968年のことだと思う。その不当解雇と清順作品のフィルム貸し出し拒否という日活の暴挙に対して清順共闘会議が結成された。
解雇のきっかけになった作品は、初めて自分のオリジナルシナリオ(具流八郎・脚本)で撮影した「殺しの烙印」だった。具流八郎というのは、八人の仲間で構成していると聞いた。大和屋竺などが加わっているという。これは、殺し屋映画としては未だにナンバーワン作品だと僕は思う。
しかし、「訳のわからない」という最大級の賛辞を受けるに値する監督というのはそういない。清順映画の魅力は、まさに「訳のわからなさ」にある。その「訳のわからなさ」が、日本映画界を席巻しベストワンを獲得した時、長年、清順監督を神と仰いできた僕は、快哉を叫んだものだった。ザマーミロです。
「ツィゴイネルワイゼン」は当初、シネマプラセットという銀色のテントでの公開だった。一種のアングラ映画として公開され、その年の日本映画のベストワンとなった(89年、ひさしぶりにプロデューサー荒戸源次郎が「どついたるねん」で復活し、今年は「鉄拳」を制作した)。
清順共闘会議の結成から十数年が経っていた。その間、何度も新作の話題はありながら、清順映画の企画は実現しなかった。清順ファンの声に応えるような形で「悲愁物語」が1本作られただけだ。
だから、それまで清順ファンは、名画座で公開される(深夜の5本立)旧作を繰り返し見て満足するしかなかった。僕らは、深夜の映画館で清順の名場面に拍手を送り続けていた。
鈴木清順がいつ改名したのかは、定かではない。初期の監督作は、本名の鈴木清太郎となっている(あの気配りのセンセー鈴木健二が弟だというのが信じられない)。ただ、清順映画の烙印が明確に押されるのは、1963年の「野獣の青春」だ。
それ以前の「素っ裸の青春」なども僕は見ているが、全編通して「清順印」が押されるのは、やはり「野獣の青春」だ。主演は宍戸錠、弟の郷英治もプラモデル好きのギャング役でがんばっている。この映画には全編ハッとさせられるシュールな映像が宝石のように散らばっている。
日活時代の作品は「刺青一代」「関東無宿」「悪太郎」「河内カルメン」「肉体の門」「春婦伝」「東京流れ者」「俺達の血が許さない」「花と怒涛」……と数え切れないくらいあるが(それにしても全部見ている)、何と言っても極め付きは「けんかえれじい」だろう。
NHKの衛星放送でやっちゃうくらいだから、この映画に関しては一般的にもファンは多いらしい。それに、僕らの世代のアイドルだった浅野順子(大橋巨泉の奥さんになってしまった)の唯一の映画なのである。若々しくて清純な順子ちゃんに会える。
名場面の1。桜並木を歩くキロク(高橋英樹)と道子(浅野順子)。先輩に因縁をつけられ、先輩が桜の花を木刀で叩いて去る。しばらくしてハラハラと二人の上に花吹雪が散る。パチパチパチ……
名場面の2。喧嘩修行をするキロク。竹やぶの中でスッポン先生(川津祐介)に教えを乞う。陰影のくっきりとしたライティングが不思議なシーンを作り出す。パチパチパチ……
名場面の3。教室での喧嘩グループとの対決シーン。「あほ、逃げ足じゃ」とスッポンとキロクは上着を頭から被り、シンクロした動きで窓をぶち破り飛び出すとスローモーションでプールに落下する。パチパチパチ……
などといくら挙げても尽きない。全編、ワクワクさせる喚起的な、こちらのイメージを刺激する映像の連続だ。まさに清順の烙印が押されている。
僕が鈴木清順監督のインタビューに出かけたのは、「陽炎座」完成直後のこと。1981年8月だった。前年の「ツィゴイネルワイゼン」を上回る凄さ、つまり訳のわからなさで、それが災いしたのか、「陽炎座」はその年のベストワンにはならず、ベスト3くらいになった。清順印が強すぎたのだろうと思う。
鏡花原作を得て清順世界がまさに絢爛豪華に花開き、めくるめく迷宮世界が初めて日本映画で構築された空前絶後の大傑作と僕には思えるのだが、「訳がわからない」と言う奴ばかりだった。
だいたい、映画というのは、そんなに訳がわからなければならないのか! 圧倒的な画面の力強さの前に「恐れ入りました。眼福でした」と妖しい美しさに搦めとられて、僕はただただ興奮していただけだというのに。
その試写の興奮覚めぬまま、僕は緊張してインタビューに出かけた。15年の間、憧れ続けた監督がテーブルを挟んで、僕の前にいた。若い頃から老けていて、誰もが老人だと騙される白いヤギ髭を生やしたニコニコと優しい笑顔が目の前にあった。
その取材テープは、僕の家宝にしている。ただし、己の興奮しあがってしまったインタビューの声を聞くのが厭で、聞き返すことはない。
その清順さんが新作「夢二」を作る。制作は荒戸源次郎。「カポネ大いに泣く」以来、5年振りだ。沢田研二、坂東玉三郎、原田芳雄はわかるにしても、あの前科一犯の映画が撮れない映画監督である長谷川和彦(2本しか撮っていないのに、そのどちらもが完璧なまでの出来であるという凄さ)が俳優でデビューするのが楽しみだ。
「ツィゴイネルワイゼン」で藤田敏八監督をうまく使った清順さんのことだから、とんでもない俳優が誕生するかもしれない。とても楽しみです───
●何年かに一度訪れる清順ブームの年
……これは1990年10月、僕が「出版人の映画の会」機関誌に書いた文章だ。もう11年も前のことになる。その後、「夢二」は、海を越えウォン・カーウァイ監督の「花様年華」で、そのテーマ曲を受け継がれたりしている。あれからでも、ずいぶん長い時間が流れてしまった。
今年は「新・殺しの烙印」(後に「ピストルオペラ」と改題)の制作が発表され、江角マキコが主演するのも話題になった。「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」「夢二」が立て続けに単館ロードショーになった。このところ清順ものの出版物も増えている。何年かに一度訪れる清順ブームの年であるらしい。
さて、20年前、「陽炎座」の公開と同時に雑誌に掲載された僕のインタビュー記事は、一部で話題になった。昔から清順さんをよく知る映画評論家の人からは「よく、あれだけ具体的な話を清順さんから聞き出せたね」と言われた。清順さんのボトルも棚に並んでいた新宿ゴールデン街のバーでのことだった。
清順さんは映画が撮れなかった70年代にずいぶん文章を書き何冊も本を出しているが、それは評判の悪文だった。いや、物事をストレートに表現せず、難解で難渋な観念的な文章だから読み解くのに骨が折れ、真意を見定めるのがとても難しい文章なので悪文と言われただけであり、魅力的なエッセイであるのは間違いない。
映画業界の人たちが読む映画雑誌などのインタビューでは、どんな質問もはぐらかし韜晦的な返事しかしないのは、清順さんのインタビューをほとんど読んでいた僕にもわかっていた。ただ、僕がやっていた雑誌は映像を作ろうとするアマチュアの人たちを対象にした雑誌だったし、映像を作る側から聞く技術的な質問が多かったから清順さんもつい素直に答えてしまったのだろう。
「鎌倉の切り通しの岩のトンネルは冥土と現世の境界を表現しているのですか」などと質問したら「いやぁ、別に何も考えていないね。好きに見てよ。ハッハッハ」と言われるのがオチだっただろう。
今でもよく覚えているが、インタビューの場所は渋谷にあったシネマ・プラセットの事務所だった。清順さんとプロデューサーの荒戸さんが目の前のソファに座った。どうしても一緒に連れて行ってくれ、と「ツィゴイネルワイゼン」を見て清順ファンになった編集部の藤井君がカメラを構えて僕の隣に座った。
さて、神様に会った人間は、最初どういう反応をするものだろうか。僕は緊張の余りというか、まずフレンドリーな雰囲気を作ろうとして、多少の縁があることを強調するため「先日、××にいったら監督のボトルが棚に並んでいましたが、よくいらっしゃるんですか」と話しかけてみた。
反応はなかった。「ああ、あそこね。ボトル、まだ、ありましたか」と軽く受け流されてしまい、話はそこで終わった。仕方がないから、僕がどれだけ清順ファンであるかを認めてもらいフレンドリーな雰囲気を醸し出そうと考え「私は高校時代からもう10年以上、監督のファンでほとんどの作品を拝見させていただいているのですが……」と話し始めた。
これもスカだった。そんなことは言われ慣れているのだ。「ツィゴイネルワイゼン」の大成功以来、清順さんに会う人全員が「私はあなたのファンです」と言っていたに違いない。そんな時代だった。
清順さんは白い山羊髭を手でしごきながら「早く本題に入れよな、オラオラ」という感じでこちらを見つめてくる。何だか自分が無知で無能なインタビュアーになった気がした。(事実、そうだったのだけど)
僕は今まで25年以上、インタビューを数限りなくこなしてきたが、インタビューというのは闘いである、と思う。入念な準備をして、相手が「うーむ、核心を衝いてきたな、やられたな」と思い本気になってくれれば、本当にいい話が取れる。
編集者なんてのはインタビューしながら見出しを考えているのだ。相手が決めの言葉を吐く。その時、一瞬、頭の中には誌面が浮かび、たとえば「映像は飛躍ですよ。セオリーなんて何もない」などという見出しが配置される。その誌面が浮かべば、インタビューは成功である。
●神様に反論したくなった時
清順さんは容易に本心を明かさない人だと僕は思う。自分を知られるのが厭なのだろう。だから、質問をはぐらかし韜晦で相手を煙に巻いてしまう。映画もそうだ。人々が絶賛し熱烈なファンを生んだ作品群は、どれもシュールレアリスティックでスタイリッシュであるが、一般的にはわかりにくい映画だ。
どこか、山田風太郎の思想性に通じるものを僕は感じているが、清順さんに言わせれば「無思想が僕の思想」ということになる。「生きている人間は死んでいる。死んでいる人間は生きている」というメッセージらしきものを僕は「殺しの烙印」の後半で感じたが、それは「ツィゴイネルワイゼン」で徹底的に深化されている。
しかし、そんな思想や映像表現を質問してもまともな返事は聞けなかっただろう。僕は、まず過去の作品から話を聞き始めた。
「東京流れ者」の中で松原智恵子は徹頭徹尾「哲也さん」というひとつのセリフしか言わない。クラブ歌手の役で、後は歌うだけだがその時に清順さんは松原智恵子の声とはまったく違う低く重い声の歌手を吹き替えに使った。だから、「東京流れ者」の中で松原智恵子が歌い始めるだけで、観客はギョッとし異化効果じみたものを感じる。
「陽炎座」でも芝居小屋のシーンの登場人物たちの声を早回しにしたり遅く回して人間の声とは思えない声にするということをやっている。そのことを僕は聞いてみたのだが「あれは妖怪の声でね。『東京流れ者』の時は、松原が歌えなかったからですよ」と清順さんはにべもない。
しかし、それにしたってもう少し松原智恵子と声の質が似た人を使えばいいじゃないか、と僕は神様に反論したくなった。なにしろ僕は「無頼シリーズ」の渡哲也と松原智恵子コンビの大ファンなのである。もちろん「東京流れ者」がなければ「無頼シリーズ」は誕生しなかったのではあるけれど……。
その後も、「大楠道代が水を張った大きな桶の中に身を沈めて口から一粒ほおづきの実を出すと、いきなり大量のほおづきの実が水の中から現れて水面を覆ってしまいますが、あれはどういう仕掛けですか」とか、「夜叉ケ池に浮かぶ小舟がぐるりと回る仕掛け」などを聞いたり、カメラアングルを聞いたりしていたが、僕の質問があまりに具体的だったのか、次第に清順さんは気を許し始めた雰囲気になってきた。
それでも、やはり清順監督は「あそこで赤を使ったのは、僕が赤が好きだというので美術さんが赤にしたんでしょう」とか、「あの場面はつながらないって言われても、つながらないカットなんてないんですよ」と、それぞれの答えはそこで終わってしまい次の質問に発展していかない。
その時、まとめた原稿がどんなものだったか、本を友人に貸し出してしまい手元に残っていないので確認できないのだが、十代の時からの僕の神様に読まれるのだという思いで、全能力を駆使して書き上げたものだった。20代最後の文章だったと思う。
あの日のインタビューは「けんかえれじい」のキロクのセリフを借りれば「ちぃーっと切ない目」に遭った思い出である。切なかったのは、自分自身の不甲斐なさを感じたからだが、神と出会った人間の本質的な思いなのかもしれないですね。
■2001年9月21日号
十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。
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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.0938 2001/09/21.Fri.発行より転載
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