118いい輪
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04/07/23掲載

十河 進

死に至る病

●ふさぎの虫に取り憑かれた時

気が滅入ってどうしようもない時がある。僕はそんな状況を「ふさぎの虫に取り憑かれた」と言っているが、そう言っている時はまだましで、気分がどんどん落ち込んでいくと鳩尾から胃にかけてズーンと重くなり、何をする気力もなくなる。それでいて不安感が去らず、何かしなければと焦る気持ちに追い立てられる。

何の理由もなくそうなることもあるが、心配事や厭なことがきっかけになっていることが多い。どんな人も心配事や厭なことがあると気分が塞ぎ気持ちが落ち込むとは思うけど、思い詰めてしまうとどんどん悪い方へ想像が進み、自信がなくなり不安が募る。

こうなったら本当に辛い。自分のやってきたことが、すべて無意味に思えてくる。たとえば「こんなコラムを書いていて何になる。カッコつけて偉そうに書いているくせに、自分がやっていることはどうだ、言葉だけじゃないか」と自らを責める。仕事についても、いきなり自信を喪失してしまう。何をやってもダメ、うまくいかないと思えてくる。

僕は、自分を鼓舞しないと生きていけないタイプで、このコラムでも説教じみたことなどを書いているが、ほとんど自分に言い聞かせるつもりで書いている。本当は泣き言やぼやきをストレートに書いた方が僕らしいのかもしれない、などと思うこともある。普段の僕は、人に弱みを見せることが多い方だろう。ただ「もういい歳なのだから覚悟を決めなければ」と言い聞かせ、我慢しているわけである。

躁鬱症で悩まされた作家・開高健は、「一日に一度も自殺を考えない奴はバカだ」とどこかで書いていた。まあ、人によるから一概に言えないとは思うけれど、グルメで冒険家のイメージが強かった開高健も「夏の闇」を読むと、ひどい鬱病に苦しめられていたというのがよくわかる。

もう何十年も僕の記憶に張り付いたまま消えてくれない短い遺書がある。ノーマン・メイラーの「ぼく自身のための広告」という作品集の中に出てくる「一年ましに、ぼくはますます気が滅入ってしまった」という遺書だ。人間は、気が滅入っただけで死んでしまうものなのだ、と二十歳の頃の僕は思った。

「絶望とは死に至る病である」とキルケゴール(だったよな)は書いた。その哲学論は読んだことはないが(読もうと試みたことはある、一応)、「絶望とは死に至る病である」という言葉にはひどく共感したものだった。

人間は躯の病からだけではなく、精神の病からも死んでしまうものなのだ。もちろん自殺という形態を取る場合も多いのだろうが、本当に躯が衰弱して死んでしまうこともある。

今年見た「クレーヴの奥方」は緊密で寡黙な映像に好感を持った映画だが、その中で貞淑な妻の他の男への恋心を知った夫は絶望のあまり衰弱して死んでしまう。フランスの古典小説を現代に翻案したものなので「ずいぶん大時代だな。今時そんな……」と思ったが、あの夫の絶望は身に沁みて伝わってきた。

●バナナフィッシュは存在するか

吉田秋生の長編マンガに「バナナフィッシュ」という作品があるが、このバナナフィッシュはたぶんジェローム・デイビッド・サリンジャーの代表的な短編「A Perfect Day for Bananafish」(1948)にインスパイアされたものだろう。「バナナフィッシュに最良の日」とか「バナナフィッシュ日和」などと訳される短編である。

この短編の主人公はシーモア・グラスという青年だ。もっとも、彼が登場する場面は少ない。前半は彼と結婚したばかりのミュリエルという女がフロリダのリゾートホテルからニューヨークに電話して母親と話すシーンだけだ。母親はシーモアが異常だと心配をしている。

後半は浜辺にシーンが移りシーモアと女の子の会話でストーリーが進んでいく。シーモアは少女に「バナナフィッシュを掴まえよう」と話す。しかし、バナナフィッシュは彼の話の中にしか存在しない魚だ。話をするうちに少女は「たった今ひとつ見た」と言い出し、シーモアは「まさか」と驚く。彼はホテルに戻り、ベッドで寝ているミュリエルを眺める。最後の文章はこんな風だ。

──それから彼はあいているツインベッドへゆき、その上に腰をおろし、女を眺め、ねらいを定め、自分の右のこめかみをうちぬいた(繁尾久・武田勝彦訳)

ここでは突然の自殺が提示されて終わる。すべての登場人物の内面は記述されず、会話と行動と状況描写だけで語られるストーリーを読み続けていくと、最後の一文は衝撃的だ。しかし、シーモアの自殺を知ってから読み直してみると、会話の中からまったく違う内面が浮かび上がってくる。

ある人はシーモアの自殺の引き金を引いたのは少女の嘘なのだと指摘する。存在しないバナナフィッシュを見たという少女の嘘が、彼を絶望させたのだと解釈するのだ。ほんの小さな子供が媚びるように彼に嘘をつく、それが人間の生まれながらの本性なのだとシーモアは絶望した……

そう言われると「なるほど」と思うところもある。だが、本当のところはわからないし、わかるわけもない。サリンジャーだってわかっていなかったただろう。理屈で解説し分析できるのなら、何も小説という形で書く必要はないのだ。ただ「バナナフィッシュ日和」を読めば読むほどシーモアの絶望が僕の胸に迫り痛いほど伝わってくる。

「バナナフィッシュ日和」はサリンジャーがその後、書き続けることになるグラス・サーガ(グラス家の物語)の核を成す短編である。シーモアがなぜ自殺したのかが、その後のグラス・サーガの中心的なテーマになる。そして、それは多くのサリンジャー愛読者を悩まし続ける謎でもあるのだ。

サリンジャーと言えば「ライ麦畑でつかまえて」が有名で、白水社はこの本だけで相当な累積売上をあげてきたと思う。僕も子供たちへの誕生日プレゼントを含め、今までに4、5冊は購入している。全世界での発行部数を見れば相当な部数が出ているだろう。

この小説は映画の中でもずいぶん小道具に使われてきたし、テレンス・スタンプとサマンサ・エッガー主演の「コレクター」では、誘拐された女子大生と誘拐してきた主人公が「ライ麦畑でつかまえて」を巡って論争をする。

しかし、サリンジャーは1950年代後半からはグラス・サーガしか書いていない。「フラニー」(1955)「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」(1955)「ズーイー」(1957)「シーモア序章」(1959)「千九二四年──ハプワース16にて」(1965)という発表順である。そして、1965年以降サリンジャーは隠遁生活に入り、作品は一編も発表していない。

●人間と人間社会に絶望しているヒロイン

僕は野崎孝さんの訳で出た「フラニーとゾーイー」(新潮文庫)ではなく、荒地出版社から出たサリンジャー選集の原田敬一訳「フラニーとズーイー」で読んだのでゾーイーではなくズーイーと言ってきたのだけど、実はサリンジャーの作品の中ではこの本が一番好きなのだ。今まで何度読み返したかわからない。

「フラニーとズーイー」を読み返すのは、僕の気分が塞いだ状態の時だ。つまり「ふさぎの虫」に取り憑かれた時に、僕は「フラニーとズーイー」を読み返す。まるで宗教書のように、である。魂の救いを求めるように僕は「フラニーとズーイー」を読む。

「フラニー」は単行本で30ページほどの短編である。そこで語られるのは人間および人間社会のエゴだ。人は他者との関係の中で傷つき絶望する。フラニー・グラス(彼女はグラス家の末の娘で名門女子大学の学生だ。長兄シーモアの自殺から7年後の設定である)も人間たちのエゴにうんざりしている。彼女は自分も含めて人間のエゴが許せない。

──どちらを向いてもエゴばかりなんて大きらい。自分のエゴも他人のエゴもみんな。何か地位につこうとか、何か目立ったことをしようとか、人目を惹く人間になろうなんて人はみんな大きらい。いやらしいわ──本当にいやらしい。

彼女は、自分を含めてすべての人間に絶望しているのだ。彼女は一冊の小さな本を持って、常に何かをつぶやき続けている。その本にはロシアの農民が聖書の中で「絶えず祈れ」と書かれていることの意味を求めて巡礼の旅に出る話が書かれている。巡礼はその途上で様々な人と出会う。

フラニーはその巡礼が旅の果てに悟り体験した昇華の状態に自分を導くために、絶えず祈り続けているのだ。彼女は人間の厭な面ばかりに傷つき社会とのつながりさえ断ちたがっている。だから、久しぶりにあったボーイフレンドとのデートの途中で、彼女は相手の俗物性や自己顕示や裏返しの自慢話に耐えられず、徐々に平静ではなくなっていき最後には気を失ってしまう。

●魂を解放し昇華してくれる結末

2年後に書かれた中編「ズーイー」は、失神したフラニーがボーイフレンドに送られて帰ってきた翌々日の朝から始まる。場所はニューヨークのグラス家のアパートメントから出ることはない。主人公として設定されているのは、グラス家の末の弟で25歳のズーイーだ。フラニーのすぐ上の兄である。

ズーイーというキャラクターは大変に複雑で、前半の次兄からきた長い長い手紙を風呂に浸かったまま読む場面やその後の母親とのやりとりも凄く面白く、僕はこんな風に書いていく小説もあるのだと最初に読んだ時には文字通り目から鱗が落ちたものだった。

しかし、このグラス家からまったく外に出ない数時間の物語がサスペンスさえ孕み始め、緊張感を維持したまま読み手をぐいぐいと引き込み始めるのは、ズーイーが何も食べず何も喋らず横になったまま何かを唱え続けているフラニーに話しかけるシーンからである。

ズーイーは自分とフラニーが同類であることを知っている。ズーイーがシニカルな人間に見えるのは、「他の人間たちがみんな俗物に見えてしまう人間になってしまった自分の厭らしさ」を自覚しているからである。そこが、フラニーとは違うのだ。フラニーは「自分も含めた人間たちの厭らしさに絶望している」だけであり、「他者をそう感じてしまう自分」についての自覚はない。

最初、フラニーの絶望を救おうとして話を始めたズーイーは、結局、フラニーを非難することになる。なぜならイエスの祈りを唱え続けて何か精神的なものを得ようとしているフラニーは「物質的なものを強欲に求める人間と同じ」なのだから、そのことを彼は指摘せずにいられない。

しかし、フラニー自身、そのことに苦しんでいるのだ。人間たちのエゴに絶望しながら、精神の救いを求める自分自身のエゴから解放されない自分に彼女は苦しんでいるのである。精神的な悟りや平安を求めても、「ほかの人と同様に利己的で、自分の利益を追求する人間じゃないってことにはならないわ」と彼女はズーイーに向かって言う。

ズーイーの言葉はフラニーのエゴをさらけ出し、フラニーはさらに深い絶望へと陥る。ズーイーは彼女の傍から去り、自殺したシーモアの部屋に入っていく……。その後、フラニーに二番目の兄バディから電話が入る。彼は遠くの大学町に籠もり教壇に立ちながら小説を書いており、サリンジャー自身を投影した存在である。

この小説が素晴らしいのは、ここからの小説的テクニックとテーマが見事に融合していることである。読み手は、まるでミステリを読んだ時のように意外などんでん返しに一瞬アッと驚くだろうし、最後には見事なカタルシスを感じることだろう。読み手の精神は浄化され、目の前に新しい世界が開かれ魂は救済される。

フラニーはバディとの会話で次第に回復していく。やがて、世界とのつながりを再び持ち始めようとする。そして、最後には「歓びで一ぱいになり、両手で受話器を持つのがやっとという有様」にまでなるのである。彼女は人間たちと人間社会と、そして自分自身への愛を取り戻すのだ。

その結果、フラニーには電話が切られた後のジーという音さえ格別に美しく聞こえる。彼女は世界への愛を取り戻したのである。そして、フラニーと同じように、この本のラストは読み手をも「ふさぎの虫」状態から回復させてくれる。

電話の相手はフラニーに、昔、シーモアが言ったフレーズを教える。その言葉の意味を彼は読み解き、そのことによってフラニーはすべてのものに対する愛を回復するのである。

──〈太った夫人〉のために靴を磨いておけ

世界に絶望し他者への許容力を失いそうになる時、僕はこのシーモアの言葉をつぶやいてみる。しかし、最近、あまり効き目がなくなったなあ。

■2001年10月5日号

十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com

二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。

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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.0942  2001/09/28.Fri.発行より転載

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