118いい輪
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05/09/16掲載

十河 進

■とほくまでゆくんだ

●甘い感傷に浸る「あなたが私の青春でした」

もうずいぶん昔のことだけど、気鋭のCMプランナーだった電通の杉山恒太郎さんを取材したことがある。アサヒビールのCMだったと思う。そのCMは映画の予告編を模して作られていて、登場人物は三人だった。当時、つかこうへいの劇で人気が出ていた風間杜夫と平田満、それに13歳の時に資生堂の「ゆれる、まなざし」でモデルデビューした真行寺君枝である。

CMは二編作られていて、一編はジャガーズの「君に会いたい」をBGMに使用し、もう一編はテンプターズの「エメラルドの伝説」をBGMに使っていた。それらの曲が流れる中、三人の男女の青春物語が15秒あるいは30秒で描かれる。

夏の日、三人が海で戯れているカット、平田満の下宿にやってきた風間杜夫が「彼女が好きなんじゃないのか!」となじるカット、土砂降りの雨の夜、走り去る風間杜夫を見つめる真行寺君枝のカットなど、いかにもそれらしいシーンが繋がれていた。

牧歌的な蜜月があり、事件があり、対立がある。友情があり、恋愛があり、失恋がある。少女を巡る青年ふたりの関係があり、少女の苦悩がある。まさに青春物語のエッセンスだけを抜き出して作ったようなCMだった。カット数は異様に多く、クレーンショットなども使った本格的な予告編だった。

そのCMには、ふたつのキャッチコピーが使われていた。ラストの製品カットに「遠くまでいくんだ」というナレーションが重なり、そのカットの下には「あなたが私の青春でした」というコピーが出た。僕はCMの映像そのものにも反応したが、そのふたつのキーワードに鋭く反応した。

「あなたが私の青春でした」は、柴田翔の芥川賞受賞作「されど我らが日々」の決めのセリフだったはずだ。「されど我らが日々」は僕らの先行世代の挫折体験を感傷的に描いた小説で、1971年に「別れの詩」という甘ったるいタイトルで映画化され、小川知子と山口崇が主演した。

先行世代の感傷に批判的なのは若者の常である。僕は「あなたが私の青春でした」というセンチメンタルなフレーズを嫌悪した。そんな甘い感傷に浸り「俺たちは挫折したんだ」などと自己憐憫さえ自覚せず、傷を舐め合うような小説を僕は認めなかった。

しかし、「あなたが私の青春でした」という過去にしか向いていない、感傷と郷愁を誘う甘いフレーズに対して「遠くまでいくんだ」という言葉は未来に向かう決意である。闘う姿勢である。挫折し傷つきながらも何かに向かっていこうとする再生への表明であり、自己への励ましに充ちた言葉である。

仕事ではあったけれど、僕はそのCMを取材する時に「あなたが私の青春でした」という言葉と「遠くまでゆくんだ」という言葉を同時に使う感覚がどこから出てきたものかを問い糺したかった。だから、僕は杉山さんに会った途端、「あれは吉本隆明ですか?」といきなり切り出してしまったのだった。

今から思えば、若気の至りである。ビールのCMだから目的はビールを売ることなのだ。そのためにターゲットを設定し、彼らが懐かしむグループサウンズの曲を流す。感傷的な青春物語を想像させる映像でテレビの前のターゲットをキャッチする。

最後に「あなたが私の青春でした」と出れば60年安保世代が懐かしがり、「遠くまでいくんだ」とナレーションが入れば70年安保世代が喜ぶだろう。彼らは酒屋でビールを選ぶ時に「そういえば『若さゆえ〜』のビールにするか」と思うかもしれない。それだけのことだったのだ。ムキになることなど、何もなかったのである。

しかし、ムキになったような僕の質問に、一瞬、戸惑った杉山さんは、その後の取材の課程で何かを感じてくれたのだろうか、そんな不躾な質問をしたにもかかわらず、新しい仕事をするたびに「今度のも見てください」という電話がかかってきた。

●「とほくまでゆくんだ」という決意

とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ

それは僕らの世代のフレーズだった。1970年代初め、高揚の後の混迷と頽廃と停滞の時代、そして分裂と憎しみの時代、僕らは「とほくまでゆくんだ」とつぶやいて精神の死を生き延びた。それは僕らの決意表明だったのだ。

終戦後、そう、日本が再生に向けてスタートした混迷の時代に、詩人の鮎川信夫は「繋船ホテルの朝の歌」を次のようなフレーズで書き始めている。

  ひどく降りはじめた雨のなかを
  おまえはただ遠くへ行こうとしていた

それは間違いなく終戦の時に青年だった鮎川信夫の決意表明だった。その詩句に応えるように吉本隆明は、1954年「涙が涸れる」という詩を書き、自らの決意を語るフレーズを僕らに遺してくれた。

  とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
  嫉みと嫉みとをからみ合わせても
  窮迫したぼくらの生活からは 名高い
  恋の物語はうまれない
  ぼくらはきみによって
  きみはぼくらによって ただ
  屈辱を組織できるだけだ
  それをしなければならぬ

1970年代前半、僕はこの詩句のおかげで、何かを失わずに生きていられた。象徴的な意味だけでなく、僕らは「とほくまでゆきたかった」のだ。希望を失わずに「ここではないどこか」へいけるのだと思えたのだった。何かに向かって生きていかなければならないのだと、自己を励ますことができたのだ。

青春時代は未決の時代だ。準備の時代であり、逆に言えば猶予の時代だ。自分が何者なのか、何になるのか、どんな人生を送るのか、皆目わからない。時に耐えられないほどの不安に包まれ、時に漠然としたバラ色の夢に浸る。時に根拠のない自信に溢れ、時に意味もなく自信を喪失する。

●思えば遠くにきたものだ

──とほくまでゆくんだ。チクショー。

その夜、デモに出て催涙弾の水平撃ちを浴びたNクンは、僕の部屋にやってくるとそう言った。彼の言語は独特だった。何かを伝えようとしているのではなく、自己の想いをダイレクトに感じてもらいたがっているような話し方をするのだった。

──ヨシモト。知らないのか? おまえが?

「知らなかった」と僕は答えた。僕はそのフレーズを知らなかったし、吉本隆明は評論家であり詩人だなどとは思ってもいなかったのだ。高校二年の時に評判になっていた「共同幻想論」を買ったけれど、難しすぎて読めなかった経験が僕を吉本コンプレックスにしていた。

1970年6月のその夜、Nクンは「安保粉砕! 沖縄奪還!」とデモで叫び続けたためか喉を嗄らしていたが、僕の下宿で吉本隆明について語った。途中、隣の部屋から何度か壁を叩く音がしたけれど、そんなことはおかまいなしに彼は語り続けた。

高校三年生の時、授業が終わって廊下へ出ると必ず隣のクラスからも廊下に出てくる男がいた。そのうち、その男と話をするようになった。それがNクンだった。高校紛争の時代だったが、彼は受験のことしか話さなかった。友人の生徒会長が体育祭で造反演説を行い退学に追い込まれた時も、Nクンはほとんど関心を示さなかった。

彼は現役で中央大学法学部法律学科に合格した。今はどうか知らないが、司法試験の合格者がトップだと誇っていた頃の中大法学部である。彼も司法試験をめざしていたのだろう。しかし、大学に入り県人寮に入った頃から言動がおかしくなった。

高校時代、いかに効率よく受験勉強をするかだけで生きていたような優等生だったNクンは、大学に入った途端にラディカルになった。校舎の窓から中庭にいた機動隊めがけて火炎瓶を投げるほどだった。

デモに出る。挙げ句の果てには三里塚まで出かけていって成田闘争を支援する。時に僕の下宿にやってきて話していくが、どこかのセクトに入っている様子はなかった。そのうち、とうとう法律学科から政治学科へ移った。逆の移籍はあっても、政治学科に移る例はほとんどなかったはずだ。

彼はエリートをめざして生きてきたレールを降りたのだと思う。大学二年になって寮を出てアパート住まいを始め、ほとんど大学に顔を見せなくなった。僕はよく彼のアパートにいき勝手に部屋に入って数日暮らしたりしたが、まったく帰ってこない日が多かった。

Nクンは大学三年になったある日、僕のアパートにやってきて隣の部屋が空いていると知ると、そのまま大家さんのところへいって話を決め、数日後に引っ越してきた。僕らは卒業まで二年以上も隣同士の部屋で暮らすことになった。

ギターが弾けたNクンは西武新宿駅前のスナックでギター伴奏(その頃はカラオケがなかった)のアルバイトを始め、毎晩、夜中にならないと帰ってこなかった。帰ってくると僕の部屋に顔を出し「食い物?」と聞くので、僕はよく彼のために料理をしたものである。

卒業して彼は公務員になり、転勤先で知り合った教師と結婚した。僕は彼が結婚できたことが信じられなかったが、我がことのように喜び帰郷した時に新居を訪ねた。

Nクンの言語を理解するのは難しい。永年のつきあいと隣同士で暮らしたことによって僕は彼の言語が理解できたけれど、彼が結婚すると聞いた時に一番うれしかったのは彼の言語を理解する女性が現れたことだった。しかし、彼女は「何を言っているのか、わからないことが多いんですよ」と笑った。

数年後、ふたりめの子供を産んですぐに奥さんは亡くなった。妊娠中に発見された癌は留めようのないほど進行していたのだ。三十歳の若さだった。彼女が亡くなった夜、電話をした僕に彼は「一生分だから……」と言った。いつものように言葉足らずだったが、彼の想いは伝わった。

それから二十年が過ぎた。彼は未だにやもめを通しているという。最後に会ってから、もう十年近くになる。「とほくまでゆくんだ」と言っていた僕らは、ずいぶん遠くまできてしまった。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com

■2003年1月31日号

十河 進【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
二十世紀半ばに生まれる。大学卒業後、某出版社に入り、編集者として過ごす。現在は、管理部門に勤務。

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筆者および「日刊デジタルクリエイターズ」編集部の許可を得て、
【日刊デジタルクリエイターズ】No.1242   2003/01/31.Fri.発行より転載
「日刊デジタルクリエイターズ」サイトにバックナンバーはすべて掲載しています
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